文档:Animage 2001年5月号
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宫崎 这部电影讲的是一个十岁女孩的父母碰巧吃了一些不该吃的食物,因此变成了猪的故事。可能会有人觉得这个故事有些讽刺,但那不是我的本意。其实,我有四五个和柊瑠美*一般大的女性朋友,每年她们都会在我的山间小屋和我一起度过夏天。我便考虑为她们制作一部她们会喜欢的电影,这就是制作这部电影的契机,也是我真正的目的。 *柊瑠美,千寻的声优,十三岁。她也在访谈发布会现场。 迄今为止我们做了给小朋友们的《龙猫》、讲述少年踏上旅途的《天空之城》、还有青春期的女孩子自力更生的故事《魔女宅急便》。然而,我们从未制作过给即将踏入青春期的,十岁左右的女孩子看的电影。所以我去读了她们留在我的山间小屋里的少女漫画杂志《好朋友》和《缎带》*。这让我认识到,我们国家给十岁的孩子们提供的也只是些情情爱爱的故事而已。然而看着我的小忘年交们,我感觉爱情并不是她们这时所怀抱的,也不是她们正期待的。那干脆,就讲一个以这样的她们为主角的故事不也挺好吗—— *《好朋友》:讲谈社于1954年创刊的少女漫画杂志。《缎带》:集英社发行的少女漫画杂志。 这次的电影,我认为决定成败的是能否让她们感到有趣,因为孩子们是不会说谎的。这样一来,我就必须改变以往“希望主角是这样”这种塑造主角的方式,转变成塑造一个能让观众觉得“本就是这样子的”,能让人共情的,非常平凡而普通的女孩子来做主角。主人公和观众们一样这一点具有重要的意义。从这点出发,我才想要在电影里讲述一个,与成长无关的,孩子们在特殊的情况时,将内在蕴含的东西激发出来的故事。我希望孩子们能像那样生活下去,我也觉得她们自己就是这样想的。 ——您什么时候开始构思制作新的电影的? 宫崎 有本儿童文学叫做《雾中的奇幻小镇》(雾のむこうのふしぎな町,柏叶幸子著,讲谈社出版)。1980年这本书出版,一开始我考虑的是能不能把这本书改编成电影。这是我们开始制作《幽灵公主》之前的事了。我们有位工作人员小学五年级的时候很喜欢这本书,并读了许多遍。我却并不觉得这个故事哪里有趣,这使我非常苦恼。于是我开始想办法解开这个谜,便制作了相关的企划书。虽然最后被否决掉了。 在那以后,我想到有一个活泼些的主人公可能会更好,就写了一个有着更年长一些的主人公的故事,是个当代的故事,叫《画烟囱的小玲》。不过这个企划同样也被否决了。这样才有了现在这个会有坐在澡堂柜台上的可怕的老婆婆登场的故事。不过回过头来看,这三个故事里都有澡堂。 ——为什么澡堂会成为故事的舞台呢? 宫崎 于我而言,一说到镇子上有些神秘的地方,那就是澡堂了。应该是油画吧,我第一次见到那样栩栩如生的画,就是在澡堂里。还有就是,澡堂的浴池里,靠近角落的地方会有一个小门,我一直很好奇那里面到底是什么样的构造。 于是我又想了个主人公是和柊小姐差不多大的青年,到澡堂里来的故事(笑)。不过也被否决了。 ——为神明开设的澡堂,这个点子是怎么想到的? 宫崎 如果真的有个神明会来洗澡的澡堂,不觉得很有意思吗。就和我们去泡温泉一样,日本的神明去那里小憩几日,离开的时候会想着要再留上几日就好了,一步三回头。我想象着这些事情,定下了场景的基调。我还想着如今做日本的神明一定很辛苦(笑)。 ——神明们的造型有原型吗? 宫崎 春日大社的祭祀上会用到画着老翁面孔的纸面具,我有用作参考。不过日本的神祇本就没有固定的形式,就是依附在岩石、柱子、树木上。但是要去澡堂的话必须要有一个具体的形态嘛,所以大黑天*就按大黑天的样子,另外还设计了一些不可名状的存在。 *大黑天:日本神明 ——您把故事背景设定为现代的原因是? 宫崎 与其说是现代,不如说是像“江户东京建筑园*”一样的世界。我本来就挺喜欢这些拟洋风*的建筑,觉得它们很有意思。加之呆在这个园子里时,我会莫名觉得有些怀念。特别是临近闭园夕阳西下的时候,一个人站着,周边也没有人,眼泪就会像断线的珠子一样冒出来(笑)。 *江户东京建筑园:一座公园,里面有明治和大正时代(大约70-120年前)的日本房屋和商店建筑。宫崎骏先生非常喜爱这座公园,常常拜访这里。采访正是在公园里进行的。 *拟洋风:一种明治早期的日本建筑风格,是传统日本设计和西方设计的融合。 我觉得我们是不是已经忘记了不久以前的建筑和街道、以及在那里的生活。我觉得我们过去不像现在这样脆弱。比方说,在个地方的生活其实非常拮据。不过几平米的小房间里放上一张矮桌,再就着这么一张小桌就能摆下的食物扒拉米饭。现在的人都觉得如今面临的困难是全世界第一次遇上的大难题,但我总觉得不景气也好还是别的什么也好,我们只是还没有习惯它们而已。这些现代的问题如何如何,有太多的人说得已经够多了,那还不如先振作起来再说吧(大笑)。我就是抱着这样的感觉来制作电影的。 ——制作电影过程中遇到的最大的困难是? 宫崎 毫不意外地,开始制作之后我意识到如果完全按我原本的想法来拍,电影时长就要超过三小时了(笑)。所以我不得不砍掉故事中的很多部分,然后改得面目全非。 这次我以一个普通人的视角出发,让这部电影尽可能地少一些华而不实的东西,让它更朴素一点。所以主人公也是,避免做成美少女比较好。结果就连我看着主人公时都会变得不耐起来……“真是笨手笨脚啊”(笑)。看样片的时候也让我觉得“她一点也不可爱,就不能变可爱一点吗?”。不过,当制作逐渐接近尾声的时候,我才终于感到“啊,这孩子以后会变成富有魅力的女性的”,终于放下心来。 ——柊瑠美小姐,你觉得千寻是个怎样的孩子呢? 柊 很任性但是又很喜欢撒娇,就像现今会有的女孩子一样。还觉得有些部分和自己很像。 宫崎 我觉得这个故事就像是,一个被生活所迫不得不出来工作养活自己的女孩子,来到比如我们吉卜力这儿,对我们说“请给我一份工作吧”一般的故事。对我们来说,吉卜力是个很熟悉的地方,但是对于一个第一次来到这里的女孩儿来说,吉卜力肯定就像一个迷宫一样,是个让她感到恐惧的地方。在她看来,这里有很多脾气坏的人。 加入一个组织,在那里找到自己的位置,并得到大家的认可是需要付出很大的努力的。许多情况下,你必须得尽力发挥自己的力量。但是这是理所应当的,这就是步入社会。 所以,这不是好人或坏人的问题,这就是社会本身的样子——我抱着这样的想法制作了这部电影。汤婆婆,她是一个可怕的女人,在电影中看起来像一个坏人。事实上她是汤屋——女主角工作的地方的管理者。她在管理汤屋的时候也遇到了很大的困难,她有许多雇员,带着一个儿子,加上她自己的欲望,她也会为这些事感到痛苦。所以我并不打算把她描绘成一个单纯的坏人。 ——对千寻这样的今天的孩子们您有什么想法吗?她们能重获她们的活力吗? 宫崎 如果让我按自己的想法来的话,我首先就会减少漫画,电子游戏和周刊杂志的数量。我会大幅度减少那些面向儿童的经济。虽然我们的工作也是其中的一部分,但是我认为我们应该只让孩子们一年只看一次或者两次动画并且禁掉补习班。如果我们让小孩子拥有更多属于他们自己的时光,做他们想做的事,一年左右他们就能变得更有活力。从孩子身上赚钱的人太多了。就算没有那些娱乐,这座园子也证明了人们同样能够好好生活。然而我们身边用于填补无聊和空虚的物件实在是太多了。这是大人们的责任,不如说就是大人们的畸形。孩子们只是一面镜子,所以他们现在变成这样也不足为奇了。 ——高畑勋先生通过制作《我的邻居山田君》向奇幻题材的叙事艺术提出疑问,您是在通过制作《千与千寻》来尝试给出答案吗? 宫崎 没有,我没这样想,但是我确实认为我们需要幻想。对那些身处无力的童年的孩子,当他们感到无助时,幻想可以给予他们一些抚慰。当孩子们面临着复杂的困难的问题时,他们一开始就不得不选择躲避。如果他们试图迎难而上,那一定会输的。我们不需要使用像“逃避现实”这样复杂又难懂的短语。不仅在我这一代,在比我更年长的一代,有许多人都曾被手冢先生的漫画拯救。我毫不怀疑幻想本身的力量。不过,幻想的创作者们在感情上变得更加无力了也是不争的事实。有越来越多的人在说,“我不可能相信这个”。但是那只是因为能够对抗这个复杂时代的幻想还没被创造出来罢了。我是这么想的。
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製作報告会採録 2001年3月26日(月) 東京都小金井市 「江戸東京たてもの園」にて実施 |
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10歳のガールフレンドたちに向けた映画 |
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僕には、毎年夏に僕の山小屋で一緒に過ごす10歳くらいのガールフレンドが5人ほどいます。その子たちが楽しめる映画を作ろうと思ったのが、今回の作品を作ることになったきっかけです。 これまで、僕らは「となりのトトロ」のような幼児のためのものとか、少年が旅に出かけていく「天空の城ラピュタ」、思春期の子が自分を抱えて生きていく「魔女の宅急便」といった作品を作ってきました。でも10歳くらいの、思春期前期の女の子たちに向けたものはまだ作っていませんでした。 それでガールフレンドたちが僕の山小屋に置いていった「なかよし」や「りぼん」といった少女マンガを読んだりもしました。しかしそこには恋だの愛だのといったことしか描かれていない。その時、この国は恋だの愛だのしか彼女たちに供給していないと感じたんです。でも実際、僕のガールフレンドを見ていると、彼女たちが心の中で抱えているものや、願っていることはそういうことではないんじゃないかと思ったんです。だったら彼女たちが主役になる物語ができないか、そう思いました。 そうすると、これまで僕は"こうあって欲しい"というふうに主人公を作ってきましたが、それではダメなんです。"そうなんだよなあ"と彼女たちが共感できるような、ごく普通の女の子を主人公にしなければいけない。それが非常に難しいんですけど、主人公がそういう等身大であることがすごい意味を持つんです。そこから物語ははじまって、よくある成長物語ではなくて、その子たちがもともと自分の中に持っていた力がある状況であふれてくる。その感じを映画の中で描きたい。そう思ったんです。それは、僕が自分の若いガールフレンドたちにそういうふうに生きてほしいという願いでもあり、彼女たちの中にもある想いだろうと思っています。 |
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舞台は日本の神様たちが来るお風呂屋さん |
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物語の舞台は、神様のためのお風呂屋さんにしました。僕にとって町の中の不思議な空間というと、お風呂屋さんというイメージがあったからです。僕が油絵や、コッテリ描かれた絵を最初に見たのがお風呂屋さんでしたし、子供の頃、お風呂屋さんの風呂桶の横に小さな戸があって、あの中はどうなっているんだろうと不思議に思っていましたからね。そういう何か不思議な場所を舞台にしようと思ったんです。しかもそこが神様のためのお風呂屋さんだったら楽しいな、と。日本の神様たちが我々が温泉に行くように二泊三日で疲れた体を休めに行く。それでもう少しいたいなあとか思いながらトコトコ帰っていく。そんなことを想像しながらイメージを作っていきました。今の日本の神様は大変だよなあとか思いながらね。 その神様の造形については、春日大社の神事に使う翁の顔が描いてある紙の面などを少し取り入れたりしていますが、日本の神様は岩や柱、木に憑いているわけですから、実際には形がないもの。その神様たちがお風呂屋さんに行くわけですから、形がないのは困る。だったら大黒の神様は大黒みたいに見えるだろうし、何の形だかわからないものもいるだろうということで、考えていきました。 そして、その神様たちが来るお風呂屋さんがある町は、都立小金井公園内にある「江戸東京たてもの園」のような世界をイメージしました。そこは明治、大正時代の民家や商店などが移築、復元してある博物館なんですけど、僕はもともとその頃の擬洋風の建物が好きなんです。面白い作りですしね。よく仕事の合間に散歩がてらその博物館に行くんですけど、そこにいるとやたらと懐かしい気持ちになれるんですよ。閉園間近に夕日が射してくる頃に一人でそこに立っていると、涙がチョチョギレちゃったりする。 僕らは、そういうちょっと前の建物や町並み、生活といったものを忘れているんじゃないかと思うんです。今のようにひ弱じゃなかったはずだと思うんです。みんな現代の問題を世界ではじめての大問題のように考えているようですけど、不景気もなにもかも、ちょっと慣れてないだけなんじゃないかと思うんです。だとしたら、今必要なことは、少し前の生活を思い出してとにかく元気になることなんじゃないか。そんな思いもこめて、そういう町並みを登場させました。 こんなふうにして今度の映画を作りはじめたわけですが、今回は普通の目線で映画を作るように心がけていますから、できるだけ映像のハッタリを減らして、地味に地味に描いています。ですから主人公の顔も、美少女はやめたんです。そうやって実際に彼女を動かしはじめたら、あまりのグズさにイライラしたりして(笑)。しかもかわいくないですから、もう少しなんとかならないのかと思ったりしました。でも映画がだんだん終わりの方に近づいていくうちに「あっ、この子はちゃんと魅力的な女性になるな」って思えて、ホッとしています。 |
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世間に出て働くことの意味とファンタジーの持つ力 |
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この物語は、例えていえば、10歳の一人の女の子がジブリにきて「働かせてください」って言っているようなものだと思うんです。ジブリは、僕にとっては見慣れた空間ですけど、初めて来た女の子にとっては迷宮のように見えるだろうし、とてもおっかないところだろうと思うんです。不機嫌な人たちがいっぱい働いていますからね(笑)。 そこで働くということは、ある組織に入って自分の居場所を見つけて、そこで認めてもらうことなんです。それには大変な努力がいる。自分の中から力を出していかないとどうにもならない部分が相当あると思うんです。でもそれが世間に出て生きていくということなわけですから、善玉、悪玉を登場させてどうということではなく、それが世間なんだというふうにこの映画を作っています。ですから、主人公が働くことになるお風呂屋さんの経営者、湯婆婆という怖そうなお婆さんも、一見悪役に見えるかもしれませんけど、そういうふうに描いているつもりはありません。彼女もお風呂屋さんの経営は大変だし、大勢の従業員はいるし、子供も抱えていて、自分の欲望もあって、そういったものに苦しめられているわけですから。 今、子供たちをダシにして飯を食っている人間が多すぎます。マンガ、テレビゲーム、週刊誌、アニメーションなどなど。そういうものがなくても人はちゃんと暮らしていける。その証拠が今回の町並みのベースになっている「江戸東京たてもの園」にあります。なのに僕らの周りには退屈と心の隙間を埋める小物があふれすぎている。それは大人の責任であり、今、大人がおかしくなっているから、その鏡である子供もおかしくなっている。そして大人はもちろん、子供も元気をなくし、力をなくしている。そんな力がない子どもたちにとって、ファンタジーは、何か救いのようなものをもっています。 子どもたちがややこしいことや、難しい問題に直面した時、正面からぶつかったら負けるにきまっているわけですから、まずはかわさなければならない。その時にファンタジーの力が必要になる。それだけのものがファンタジーにはあると思っています。そう思ってこの映画も作っています。 |
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