文档:故事中的故事

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ノルシュテイン監督の「話の話」のフィルムを収録し、高畑勲が解説を加えた一冊。
收录了诺尔施泰因导演的《故事中的故事》影片,并由高畑勋进行解说的一本书。
ユーリー・ノルシュテイン監督の『話の話』のフィルムを収録し、高畑勲監督が解説を加えた一冊。「ひとつの物語ではなく、物語を超えたところにうちたてられるべきひとつの詩的世界、すべての物語の総合であり同時に胚子であるような思想的構造物たらしめようとした」ノルシュテインの方法を探る。1984年に発行されたものの復刻版。
收录了尤里·诺尔施泰因导演的《故事中的故事》影片,并由高畑勋导演进行解说的一本书。书中探讨了诺尔施泰因的方法,他试图“不是创造一个故事,而是建立一个超越故事的诗意世界,一个所有故事的综合体,同时也是一个思想结构的胚胎”。这是1984年发行的版本的复刻版。
監督/ユーリー・ノルシュテイン
解説/高畑勲

アニメージュ文庫
全144頁(カラー96頁)
本体価格800円
ISBN4-19-669524-8

 1979年に制作された『話の話』は、世におくりだされるやたちまち幻想的で詩情にあふれる映像でみる者を魅了した作品です。この作品を制作したロシアのアニメーション作家であるユーリー・ノルシュテインがつくり出す作品はどれも、今なお何度みても飽きることなく、アニメーションのもつ表現の可能性の大きさを示すすぐれた映像詩を生み出しています。
 この本では『話の話』の場面の一つ一つを188点のカラーフィルムで、その映像詩を忠実に紹介。巻末には高畑勲監督の解説が加わり、ノルシュテインがつくったこの作品の魅力をより伝える本になっています。

『話の話』作品データ
ソ連邦動画スタジオ 1979年製作
(監督)Y・ノルシュテイン/(脚本)L・ペトルシェフスカヤ、Y・ノルシュテイン/(美術)F・ヤルブソワ/(撮影)I・スキダン=ボシン/(音楽)M・メエロヴィチ/(狼の声)A・カリャーギン
ザグレブ国際動画祭大賞/オタワ国際動画映画祭グランプリ ほか
导演/尤里·诺尔施泰因
解说/高畑勋

ANIMAGE文库
全144页(彩色96页)
定价800日元
ISBN4-19-669524-8

 1979年制作的《故事中的故事》一经推出,便以其充满幻想和诗意的影像吸引了观众。这部作品的创作者,俄罗斯动画导演尤里·诺尔施泰因,他的每一部作品至今仍让人百看不厌,展现了动画表现力的巨大潜力,是卓越的影像诗。
 本书通过188张彩色胶片,忠实介绍了《故事中的故事》的每一个场景。书末附有高畑勋导演的解说,进一步传达了诺尔施泰因创作的这部作品的魅力。

《故事中的故事》作品资料
苏联动画工作室 1979年制作
(导演)Y·诺尔施泰因/(编剧)L·佩特鲁舍夫斯卡娅、Y·诺尔施泰因/(美术)F·雅尔布索娃/(摄影)I·斯基丹-博辛/(音乐)M·梅耶罗维奇/(狼的配音)A·卡利亚金
萨格勒布国际动画节大奖/渥太华国际动画电影节大奖 等
はじめに
开始
 ぼくがノルシュテインの作品をはじめてみたのは、「セロ弾きのゴーシュ」の上映会に併映された「霧につつまれたハリネズミ」(註1)だった。すばらしかった。完璧な映像詩だった。もちろん「ハリネズミ」を「詩」であるというだけでは足りない。特に「ハリネズミ体験」とでもよぶべきものをしたあとでは。
 霧にとらえられたハリネズミのように、観客はいっぺんにこの作品にとらえられる。そしてハリネズミとともに井戸をのぞいてコダマに耳をかたむけ、フクロウにあとをつけられ、霧のなかをさまよい、馬を見、まぼろしの象を見、大木にぶつかり、おびえ、忘れた荷物をさがしにもどり、不安に立ちつくし、突然の犬の出現におどろき、とどけてくれた荷物にほっと胸をなでおろす。ハリネズミとともにこの親切な犬にありがとうを言おうと思ったときにはもう犬は姿を消している。紅一点の可愛い舌ハアハアと鼻クシュンの印象だけを残して。ぼくはたしかにハリネズミとともに霧のなかをさまよったのだ。そしてはじめからおしまいまでその暖かいユーモアに心をひらかれながら、しかもなお、まるで現実の体験だったとしかおもえないほどハリネズミと霧をさまよった肉体的感覚的記憶がぼくの身のうちに生きている。子供時代ならば不思議はない。しかしぼくはもう五十に近いオッサンだ。アニメーションでこんなに同化出来たのはいったい何年ぶりだったろう。それ以来ぼくはすっかりノルシュテインのファンになってしまった。
「あおさぎと鶴」「霧につつまれたハリネズミ」「話の話」などノルシュテインの作品はすべて、いわば夢のフィルターをとおして世界をみているような気分にぼくらを誘いこむ魔力をもっている。暗緑色と褐色を基調にした繊細(せんさい)で魅惑的な映像が白々とした空間にうかびあがる様(さま)は、その奇妙に失速度のあるテンポとあいまって、たとえようもなく美しく悲しく、まるで夢の大海原の水に浸(ひた)されているような、夢の海のなかをくぐっていくような、じつに玄妙不可思議な世界にぼくらを連れていってくれる。そこではものみなしずまりかえり、原初の寂寥(せきりょう)感がただよう。まざまざと実感させてはくれるが、手で触れようとするとそのまますりぬけてしまいそうな、だからこそかえって心にしみとおる忘れがたい記憶だけをのこして。ここではユーモアでさえもがいわば夢の水に浸されたうえですがたをあらわすかのようだ。
「話の話」はしかし、そう簡単にぼくをよせつけてはくれなかった。はじめてみたとき、これはすごい作品に出会ったとおもった。主人公の犬のような動物はそのキャラクター、その表情、そのしぐさ、なにからなにまでまったく魅力にあふれていた。しかし作品が理解できたかといわれれば、ごく部分的にしかわからなかったというしかない。不思議な、魅惑的でこわい夢をまざまざとみたような気分を味わった。ぼくはみている間じゅう、「ハリネズミ」の作家から期待してよいはずの「物語」をみつけだそうと懸命だった。疲れきってしまったが「物語」はうまく綴(つづ)りあわすことが出来なかった。ところがしばらくして二度目をみる機会があって、上映がはじまっていくらもたたないうちに、ハラッと眼からウロコが落ちたとでもいうのか、「これは物語ではなくて詩なんだ」と感じたとたんじつにすんなりと「話の話」の世界に入っていけたのである。もちろん理解できないことだらけだったが。

 この「解説」は、ちょうど和歌や俳句の「解釈と鑑賞」というたぐいの書物と同じように、もっぱら作品内容を散文的に敷衍(ふえん)することに重点を置いている。このような形式の解説が映画に対してなされることには疑問もあろう。しかし、「話の話」は「詩的な映画」ではなく、映像による完全な「詩」であり、詩の原理にもとづいて作られている映画である。和歌や俳句に許されることがこのような映画詩に許されぬはずはないとおもう。ノルシュテインは一部の芸術アニメーションファンだけのために三年もかけてこの「話の話」を作ったのではない。自分と万人のために作りあげたのだ。
 和歌や俳句の「鑑賞」といえば、まず解釈をくわえながら散文的に内容を敷衍することとされている。しかしそのとき短歌のもつ「ことば」の味わい、音楽性、簡潔性はすべて失われる。意味を理解したことがすなわちその詩歌をわかった、感じたということにならないのはいうまでもない。敷衍され解釈された内容を踏まえつつ、あるいはそれを批判的に摂取したうえで、それらを原詩に即して感覚的に頭や心のなかで再構築することは完全に読者にゆだねられているのである。要するに原詩をそのようにしてでも何度もくりかえし味わうことが和歌俳句の場合当然とされている。ぼくは自分の経験から、この「話の話」の場合も詩歌とまったく同じようにくりかえし味わうことがどうしても必要だと考える。たしかに映画は詩集とちがい何時(いつ)でもみられるわけではないし、そのたびに出向きお金を払わなければならない。しかし「話の話」はそれに価する作品である。1980年の世界各地のアニメーションフェスティヴァルで大賞を総ざらいしたこの「話の話」の出現がひとつの事件であるとするならば、それは「詩」としての構造をはっきりもち、詩歌と同じようにくりかえし鑑賞することがはじめから前提され、そのたびに印象の深まりを体験すること自体を要求している作品、そういうものがアニメーションの世界に出現したという意味においてではないだろうか。
(家をたずねていくのに、すぐ人に道をきく人もいれば、地図を片手に行きつもどりつやっとたどりつくのが好きな人もいる。どちらかといえばぼくもそのくちである。せっかくノルシュテインに会いながら質問らしい質問はなにもできないできてしまった。もちろん「話の話」について彼が話してくれたことはこの解説のなかにすべて引用するつもりであるが、あとはどのみちぼくの独断と偏見にもとづく敷衍作業にすぎない。本当は解説を読むよりまずくりかえし「話の話」をみることをこそすすめたいので、このページで本を閉じて作品にふたたびあたってみようとおもわれる人のために、ひとつだけ重要なことをしらせておきたい。
 ぼくたち日本の観客にとって「話の話」がわかりにくいひとつの理由がある。それは都市の庶民の住居が昔から基本的に共同住宅であるということだ。パリやローマの堂々たる石造りの建物もその多くがアパートであり、「話の話」の重要な舞台であるロシアの古い木造の建物も、なかで二十世帯も生活しているアパートなのである。これを知っていないと、長い長いテーブルクロスや、その下に並べられた雑多な机や、前庭の自動車の数がなんのことかわからなくなる。)

註1)「霧につつまれたハリネズミ」は1975年の作品。ノルシュテインにとっては第三作目にあたる。スタッフは撮影がA・ジェコフスキー(この人がノルシュテインとずっと組んでいる)に変わるだけで、「話の話」とほぼ同じである。全ソ映画祭動画部門一位になるなど、これも高く評価された。

(C)ISAO TAKAHATA
この文章は高畑勲監督の「解説」よりその一部である「はじめに」から転載しました。
 我第一次看到诺尔施泰因的作品是在《大提琴手高修》的放映会上,同时放映的还有《雾中的刺猬》(注1)。太棒了。那是一部完美的影像诗。当然,仅仅将《刺猬》称为“诗”是不够的,尤其是在经历了所谓的“刺猬体验”之后。
 就像被雾困住的刺猬一样,观众也立刻被这部作品吸引住了。然后,与刺猬一起窥视井底,倾听回声,被猫头鹰跟踪,在雾中徘徊,看到马,看到幻象中的大象,撞上大树,感到害怕,回去寻找遗忘的行李,不安地站着,被突然出现的狗吓到,最后因为送来的行李而松了一口气。当我想和刺猬一起向这只友善的狗道谢时,狗已经消失了,只留下那红红的舌头和可爱的喷嚏声。我确实和刺猬一起在雾中徘徊过。从头到尾,我的心都被那温暖的幽默所吸引,而且,那种与刺猬和雾一起徘徊的肉体感官记忆依然活在我的身体里,仿佛那是一次真实的体验。如果是童年时代,这并不奇怪。但我已经是个快五十岁的大叔了。我到底有多少年没有在动画中如此沉浸过了?从那以后,我彻底成为了诺尔施泰因的粉丝。
《苍鹭与鹤》、《雾中的刺猬》、《故事中的故事》等诺尔施泰因的作品,都拥有一种魔力,仿佛让我们通过梦的滤镜来看世界。以暗绿色和褐色为基调的细腻而迷人的影像在苍白的空间中浮现,配合那奇妙的慢节奏,美得无法形容,悲伤得无法言喻,仿佛我们被浸在梦的海洋中,穿越梦的海底,进入一个极其玄妙不可思议的世界。在那里,万物沉寂,原始的寂寥感弥漫。虽然让我们清晰地感受到,但当我们试图用手触摸时,它却仿佛会从指间滑过,因此只留下那些深深印在心中的难忘记忆。在这里,甚至连幽默也仿佛被梦的水浸透,呈现出另一种形态。
然而,《故事中的故事》并没有轻易让我进入。第一次看时,我觉得自己遇到了一部了不起的作品。那只像狗一样的动物主角,无论是它的性格、表情还是动作,都充满了魅力。但如果问我是否理解了这部作品,我只能说我只能理解其中的一小部分。我仿佛经历了一个奇妙的、迷人的、可怕的梦。在观看的过程中,我一直在努力寻找从《刺猬》的创作者那里可以期待的“故事”。虽然我筋疲力尽,但始终无法将“故事”串联起来。然而,过了一段时间,我有机会第二次观看,电影刚开始没多久,我仿佛突然茅塞顿开,意识到“这不是故事,而是诗”,那一刻,我轻松地进入了《故事中的故事》的世界。当然,仍然有很多地方无法理解。

 这篇“解说”就像和歌或俳句的“解释与鉴赏”类书籍一样,主要侧重于将作品内容以散文的形式展开。对于电影来说,这种形式的解说或许会让人产生疑问。然而,《故事中的故事》并不是“诗意的电影”,而是一部完全由影像构成的“诗”,是一部基于诗的原理制作的电影。我认为,和歌和俳句所允许的,这种电影诗也应该被允许。诺尔施泰因并不是为了少数艺术动画粉丝而花费三年时间制作这部《故事中的故事》的。他是为自己和所有人创作的。
 说到和歌和俳句的“鉴赏”,通常是在解释的同时以散文的形式展开内容。但在这样做时,短歌所具备的“语言”的韵味、音乐性和简洁性都会丧失。显然,理解意义并不意味着理解了或感受到了那首诗。在基于解释和展开的内容之上,或者批判性地吸收之后,读者需要根据原诗在感官上重新构建头脑和心中的内容。总之,对于和歌和俳句来说,反复品味原诗是理所当然的。根据我的经验,我认为《故事中的故事》也需要像诗歌一样反复品味。当然,电影与诗集不同,不能随时观看,每次观看都需要出门并支付费用。但《故事中的故事》是一部值得这样做的作品。如果1980年世界各地的动画电影节上横扫大奖的《故事中的故事》的出现被视为一个事件,那么它的意义在于,这是一部明确拥有“诗”的结构,从一开始就预设了像诗歌一样反复欣赏,并要求每次欣赏都能体验到印象加深的作品,这样的作品在动画世界中出现了。
(在寻找某个地方时,有些人会立刻向人问路,而有些人则喜欢拿着地图来回摸索,最终找到目的地。我属于后者。虽然好不容易见到了诺尔施泰因,但我却没能提出任何像样的问题。当然,他关于《故事中的故事》的谈话我打算全部引用在这篇解说中,但除此之外,这不过是我基于个人独断和偏见的展开工作。实际上,与其阅读解说,我更建议反复观看《故事中的故事》。因此,对于那些想在这页合上书本,再次接触作品的人,我想提醒一件重要的事情。)
 对于我们日本观众来说,理解《故事中的故事》有些困难的一个原因是,城市平民的住宅自古以来基本上都是共同住宅。巴黎和罗马那些宏伟的石造建筑大多也是公寓,而《故事中的故事》的重要舞台——俄罗斯古老的木造建筑,里面也住着二十户人家。如果不了解这一点,就无法理解那长长的桌布、下面摆放的各式各样的桌子,以及前院停放的汽车数量到底是什么意思。

注1)《雾中的刺猬》是1975年的作品。对于诺尔施泰因来说,这是他的第三部作品。除了摄影师换成了A·杰科夫斯基(他一直与诺尔施泰因合作)之外,其他工作人员与《故事中的故事》几乎相同。这部作品在全苏电影节动画部门获得第一名,同样受到了高度评价。

(C)ISAO TAKAHATA
本文转载自高畑勋导演的“解说”中的一部分“前言”。