文档:吉卜力工作室的历史

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吉卜力工作室的历史 文档 
スタジオジブリの歴史
吉卜力工作室的历史
ジブリのスタート
吉卜力的起点
 スタジオジブリは、「風の谷のナウシカ」の内容的興行的成功を機に、「天空の城ラピュタ」製作時の1985年に、「風の谷のナウシカ」を製作した出版社・徳間書店が中心となり設立したアニメーション・スタジオです。以後、宮崎駿・高畑勲両監督の劇場用アニメーション映画を中心に製作してきました。ちなみに「ジブリ」とはサハラ砂漠に吹く熱風のことです。第2次大戦中、イタリアの軍用偵察機が名前に使用していましたが、飛行機マニアの宮崎がこのことを知っており、スタジオ名としたわけです。「日本のアニメーション界に旋風を巻き起こそう」という意図があったと記憶しています。
 ジブリのように原則的に劇場用の長編アニメーション、しかもオリジナル作品以外は製作しないスタジオというのは、日本のアニメ界では、というより世界的にも極めて特異な存在だと思います。なぜなら、興行の保証が得られない劇場用作品は、リスクが大きすぎるだけに、継続して収入が得られるテレビ・アニメーション・シリーズを活動の中心に置くのが常識だからです。日本でも、多くのアニメーション・スタジオがテレビ・アニメに基盤を置きつつ、たまに劇場用作品を作るというのが一般的です。そして、日本で作られる劇場用の映画も、じつは、評判のよいテレビ・アニメを映画化するというケースがほとんどです。
 もっとも、ジブリも最初から現在の体制で運営されていたわけではありませんでした。
 高畑と宮崎、現在ジブリの中心となっているふたりが出会ったのはそもそも今から30年以上も前のことです。当時ふたりが所属していた東映動画(現・東映アニメーション)は、まだ劇場用長編アニメーションだけを作っていました。何作か長編作品の製作に参加した彼らですが、時代の流れとともに活躍の舞台をテレビへと移さざるを得ませんでした。74年に放送されたテレビ・シリーズ「アルプスの少女ハイジ」(制作・ズイヨー)は、高畑が監督し、宮崎が絵を担当した作品ですが、これは、テレビ・アニメのひとつの到達点ともいうべき作品です。
 しかし、そういった作品群を産み出す中で、いつしか彼らは、自分達が目指しているリアルでハイクオリティなアニメーション作り----人間の心理描写に深く入り込み、豊かな表現力で人生の喜びや悲しみをありのままに描き出す----を実現していくのには、やはりテレビという、予算的にもスケジュール的にも制約の大きい媒体では不可能であるという結論に到達していくのです。それが「風の谷のナウシカ」以後のジブリ設立への原動力になったわけです。予算とスケジュールをかけて一作一作に常に全精力を注ぎ込み、すみずみまで目の行き届いた妥協のない内容を目指していく。しかも、それを宮崎・高畑というふたりの監督を擁し、監督中心主義で作る。ジブリの20年は、この姿勢を保持しながら、それでいて商業的な成功とスタジオの経営を両立させていくという困難な課題を、両監督の卓越した能力とスタッフの努力によって、かろうじてこなしてきた歴史であるといえるかもしれません。
 正直いうと、ジブリがここまで続くとは誰も考えていませんでした。一本成功したら次をやる。失敗したらそれで終わり。設立当初は、こういう考え方だったからです。ですからリスク軽減のために社員の雇用はせず、作品ごとに70人ほどのスタッフを集め、完成すると解散するというスタイルをとりました。場所は東京・吉祥寺の貸しビルのワンフロア。この方針を打ち出したのは、実は高畑勲でした。彼は「風の谷のナウシカ」をプロデュースしましたが、そのとき見せた実務能力が、ジブリのスタート時にも大いに発揮されたわけです。そして、「天空の城ラピュタ」も高畑勲プロデュース・宮崎駿監督で制作されました。
 「風の谷のナウシカ」は1984年の公開で91万5千人、「天空の城ラピュタ」は1986年で77万5千人の観客をそれぞれ日本国内で動員し、高い評価を得ました。
 吉卜力工作室是以《风之谷》的口碑票房双成功为契机,在1985年制作《天空之城》时,以制作《风之谷》的出版社德间书店为中心创办的动画工作室。之后,工作室主要以制作宫崎骏与高畑勋两位导演的剧场版动画为中心。工作室名称“吉卜力”乃撒哈拉沙漠上吹拂的热风之意。第二次世界大战中,此名称曾被意大利军方用作军用侦察机之名,身为飞机狂热爱好者的宫崎骏正是以此为来由而将工作室命名为“吉卜力”的,其中包含了他“在日本动画界掀起一阵旋风”的期望。
 像吉卜力这样原则上只制作剧场版长篇动画,而且还是原创作品的工作室,无论是在日本动画界,还是在世界上都是极为特殊的存在。究其原因,是因为制作一部票房无法得到保证的剧场版作品所需担负的风险过高,因此将重心放在可以持续获得收入的电视动画系列上才是业界公认的常识。即使在日本,大多数的动画工作室都将制作电视动画作为基础,偶尔才制作几部剧场版动画。而且,在日本制作的剧场版动画,其实多数也是口碑好的电视动画的剧场版作品。
 其实,吉卜力也并非从一开始就采取现在这种运营体制。
 高畑勋和宫崎骏——这两位吉卜力如今的中心人物,他们的相遇要追溯到30年之前。当时两个人所就职的东映动画公司(现在的东映Animation),也是一家只制作长篇剧场版动画的公司。他们当时虽然参与制作了数部长篇作品,但也不得不跟随时代的潮流,将活跃的舞台转移到电视上。1974年播放的电视系列动画《阿尔卑斯的少女》(制作·瑞鹰)中,由高畑勋担任导演,宫崎骏担任画面构成,这部动画是可被称为电视动画里程碑的作品。
 然而,在制作这类电视作品的同时,不知何时他们渐渐发现,电视动画这一媒体形式终究会受到预算和日程方面的极大制约,要想制作出自己理想中具有现实感和高质量的动画——即能够深入挖掘人物心理活动,以丰富的表现力如实反映出人生悲欢的作品——依靠电视动画是无法达成这个目标的。这一结论便成为《风之谷》后他们创立吉卜力的最初原动力。依靠充足的经费和日程安排,每一部作品都竭尽全力,以创作出注重每个细节、毫不妥协的作品为目标。而且,吉卜力设立了以宫崎骏、高畑勋两位导演为中心的导演中心主义。吉卜力创立后的20年,可以说是一直保持着这样的方针,在商业性成功和工作室经营两者间寻求平衡,依靠两名导演卓越的能力与各工作人员的共同努力不断克服种种困难的艰难历程。
 老实说,当初谁也没能想象到吉卜力会走到今天。一部作品成功就继续经营工作室,一旦失败就结束。这正是工作室创立之时的考量。因此,为了降低风险,吉卜力不雇佣员工,而是采用创作一部作品召集70名工作人员,作品完成便解散团队的体制。工作地点位于东京吉祥寺某间租赁写字楼的一层楼。制定此方针的人,正是高畑勋。他曾在《风之谷》中担任制作人一职,那时他所展现出的业务能力,在吉卜力创立初期也发挥了巨大的作用。接着,《天空之城》也由高畑勋担任制作人,宫崎骏执导。
 《风之谷》于1984年上映时观看人数达到91万5千人,《天空之城》于1986年上映时观看人数达到77万5千人,各自都在日本国内掀起热潮并获得极高评价。
日本映画界が注目したジブリ
受到日本电影界瞩目的吉卜力
 さて、次にスタジオジブリが制作したのが「となりのトトロ」と「火垂るの墓」でした。この2本は実は同時期に作られ、1988年の4月に2本立てで公開されました。「となりのトトロ」は宮崎駿、「火垂るの墓」の監督は高畑勲です。宮崎作品と高畑作品の同時公開というのは、後にも先にもこのとき一回限り、考えてみれば随分と豪華な組み合わせでした。しかし、制作現場は、その分大変な状態に陥りました。なにしろ、長編2本を同時に作らなくてはならないのです。しかも、作品の質は向上させたい。ほとんど無理な要求でしたが、いま、やっておかないとこの両作品を作るチャンスは二度と巡ってこない。そういう判断に立ち、暴挙以外の何物でもないこのプロジェクトを推し進めたのです。
 ここで忘れてならないのが、設立当初からジブリの社長だった故・徳間康快です。彼はそもそも出版社・徳間書店の社長でしたが、本業だけにとどまらず幅広い事業展開をして、徳間グループを築き上げた人物でした。
 徳間社長がスタジオに顔を出すことは滅多にありませんでした。基本的には現場に任せていたからです。しかし、ここぞというときには、顔を出しました。漫画「風の谷のナウシカ」の映画化を決断したのも、ジブリの設立を決断したのも彼です。「となりのトトロ」「火垂るの墓」の2本立てですが、じつは配給が決定するまでには相当な困難がありました。その前の2本に比べると、地味な印象があったからです。このときも徳間社長は自ら配給会社に乗り込んでこの作品を売り込み、話をまとめたのです。これらの徳間社長の働きのひとつでも欠けていたら、現在のジブリはなかったでしょう。
 「となりのトトロ」と「火垂るの墓」は、公開時期が日本で一番お客さんを集めるサマー・シーズンではなかったこともあり、封切の興行成績はいまひとつでした。しかし、作品内容に対しては、各方面からきわめて高い評価を受けました。「となりのトトロ」は、実写を含めたこの年の日本国内の映画賞を総ナメにしました。「火垂るの墓」も文芸映画として大絶賛されました。この2本によって、ジブリは日本映画界にその名を広く知られるようになりました。
 また、「となりのトトロ」は思わぬ副産物も生みました。ぬいぐるみが大ヒットしたのです。いま「思わぬ」といいましたが、実際、このぬいぐるみは映画の公開から2年も経ってから商品化されたものでした。映画製作者サイドがあらかじめ興行との相乗効果をねらって製作したものではなく、あるぬいぐるみメーカーの人が「これこそぬいぐるみにすべきキャラクターだ」と惚れ込み、ジブリへ熱心に働きかけた結果実現したものなのです。
 ともあれ、トトロ商品のお陰で、ジブリは映画の製作費の部分的な補填が可能になり、会社のマークも、これ以降トトロを使うことになりました。マーチャンダイジングについては、現在ジブリの社内の商品企画部で、展開をしています。ただ、あくまで映画が先で、商品はその後から生まれるものだという方針に変わりはありません。商品化のために作品内容を決める、あるいは変更する、ということはこれまで一切行なっていないことは自慢できると思います。
 吉卜力工作室接下来着手创作的是《龙猫》和《萤火虫之墓》。这两部电影其实是同期制作,并于1988年4月同时上映。《龙猫》由宫崎骏执导,《萤火虫之墓》则由高畑勋执导。宫崎骏和高畑勋两个人的作品同时上映的情况仅此一次,仔细想想还真是相当豪华的组合。然而,制作现场却因此陷入了大危机。毕竟是要同时完成两部长篇动画,而且还要努力提升作品质量。虽然这是看似不可能的条件,但如果不抓住这次机会,再不会有同时制作两部作品的机会了。基于这样的判断,作品进程的推进可谓是完全依靠着一股鲁莽的劲头。
 这里不得不提的,就是吉卜力创立之初的社长——已故的德间康快先生。他原本是德间书店出版社的社长,但在本职工作外也积极拓展其他领域的业务,一手打造出了德间集团。
 德间社长很少在工作室内露脸,因为制作基本交由现场工作人员负责。然而,在重大关头,却少不了德间社长的身影。无论是将漫画《风之谷》拍摄成电影,还是吉卜力的创立,都是由他做出最终决定的。虽然《龙猫》和《萤火虫之墓》同期上映,但在决定发行方的时候却遇到了相当大的困难。因为比起之前的两部作品,这次的作品给人的印象较为朴素。这时也是由德间社长亲自去找发行公司商谈,努力推销作品,才最终敲定下来。如果缺少了德间社长的付出,恐怕就不会有如今的吉卜力了。
 《龙猫》和《萤火虫之墓》的上映日期并非是在最容易聚集观众的夏季,因此初次上映的最终票房成绩不算可观。然而,对于作品内容,各方都给出了极高评价。《龙猫》包揽当年包括真人电影在内的日本国内所有电影奖项,《萤火虫之墓》作为文艺片也受到交口称赞。依靠这两部作品,吉卜力在日本电影界打响了名声。
 另外,由《龙猫》诞生出了意想不到的周边产品。那就是大受欢迎的龙猫玩偶。虽然如今说起来是“意想不到”,但其实当时这个玩偶是在电影上映两年后才被制作成商品的。而且,并非是电影制作方为了增加票房收入而想出这个主意的,反而是某个玩偶生产厂家的人认定“这正是最应该被做成玩偶的角色”,积极与吉卜力接洽后才实现的产品。
 总之,托了龙猫商品的福,吉卜力的动画制作费用得到了一部分填补,公司的商标此后也使用龙猫作为图案。关于商品化计划,现由吉卜力公司的商品企划部负责展开。只是,公司依旧坚持以电影为优先,商品是其后产物这一方针。至今为止公司从未为了商品化而决定或变更作品内容,这是很值得自豪的。
ジブリ第2期スタート
吉卜力二期的开始
 ジブリ作品で興行的に最初に大成功したのが宮崎監督の1989年度作品「魔女の宅急便」でした。264万人が劇場に足を運んでくれて、この年、邦画No.1ヒットとなりました。配給収入も観客動員もまさにそれまでとはケタ違いです。しかし、大ヒットの陰で、関係者のあいだでは深刻な議論が持ち上がっていました。この先、ジブリをどういう会社にしてゆくのか、という大問題です。具体的には、スタッフの待遇と新人の採用・育成です。
 日本のアニメーション界では、「描いた絵1枚、塗った絵1枚につきいくら」と賃金を設定するいわゆる「出来高制」が通例で、当時のジブリもそれでやっていました。その結果、「魔女の宅急便」の頃のスタッフの収入は、普通の勤め人の約半分という苛酷な状態だったのです。
 宮崎監督はふたつの提案をしました。
   1.スタッフの社員化及び固定給制度の導入。賃金倍増を目指す。
   2.新人定期採用とその育成。
 ジブリの状況とは裏腹に、当時、日本のアニメーション界は悪化する一方でした。そんな中で良質な作品を作るためには、拠点の維持、組織の確立、スタッフの社員化、研修制度の整備等が不可欠である、と判断したわけです。方針の明確な転換でした。いわば、ジブリの第2期のスタートでした。ここでも、徳間社長の支持がありました。
 ところで、プロデューサーの鈴木がジブリの専従になったのは、じつはこの時点のことです。それまでは、徳間書店が発行するアニメーション専門誌「アニメージュ」の編集長をしていました。「アニメージュ」には、1978年の創刊に携わり、1983年に徳間書店が「風の谷のナウシカ」の製作を開始して以来、雑誌の編集とかけもちで、ジブリの映画製作にも関わってきたのです。
 こうして、ジブリは高畑監督の「おもひでぽろぽろ」に取りかかりました。そして、この作品制作中の89年11月からは、先程述べたように、スタッフを社員化・常勤化する一方、動画研修生の制度を発足させ、毎年定期的な新人採用を開始しました。
 1991年に公開された「おもひでぽろぽろ」も興行関係者の不安をよそに、大ヒットしました。「魔女の宅急便」同様、この年の邦画No.1になったのです。とりわけ嬉しかったのが、宮崎の掲げた2大目標が達成できたことです。賃金倍増と新人採用。しかし、ある問題も明確になりました。それは製作費の高騰です。これは作る前からわかっていました。なぜなら、アニメーションの製作費はその約80%が人件費であり、賃金を倍増すれば、それは自動的に製作費も倍近くなることを意味していたからです。
 「ジブリ第2期」の新方針は、必然的に関係者の目を宣伝・興行に向けさせました。製作費の大幅アップは避けがたい。ならばそれに見合うだけの観客動員増を、もっと意識的・計画的に手を打って達成するしかない。それまでも考えていなかったわけではないのですが、この「おもひでぽろぽろ」が、真剣に宣伝に取り組むようになったきっかけの作品になりました。
 当時ジブリの責任者だった原徹氏が「ジブリは3Hだ」といい出したのもこの時です。HIGH COST, HIGH RISK, HIGH RETURN。大きくお金をかけて質の高い作品を作り、大きな不安を抱えながらも、大きく儲けよう。そんな意味だったと思います。あれから随分たちましたが、この言葉は、いまだに通用します。もっともHIGH RETURNについては、仮にその通りになったとしてもすぐに次回作に投入してしまうので、少しも手元に残りません。さて、社員を抱えるということは、給料を毎月支払うということです。ジブリは常に作品を作り続けるしかない状況に自らを追い込んだのです。作り続ける宿命を負ったジブリは「おもひでぽろぽろ」とオーバーラップして「紅の豚」の制作に突入しました。オーバーラップはジブリにとっては初めての経験でした。なにしろ「おもひでぽろぽろ」の追い込みの時期です。ネコの手も借りたいのに、どうやって「紅の豚」に人を割いたらいいのか勝手がわかりません。結局、「紅の豚」の制作に突入したのは宮崎ひとりでした。宮崎は文句をいいました。「制作も何もかも、ぜんぶひとりでやれというのか」。愚痴は聞きましたが、ひとりでやってもらうしかありませんでした。
 吉卜力作品中,在票房上首次获得巨大成功的是宫崎骏执导的1989年作品《魔女宅急便》。共有264万人来到影院观看,并最终成为当年日本第一受欢迎的电影,无论是发行收入还是观看人数都远超此前的作品。然而,在这次大受欢迎之后,相关人员之间却展开了深刻的讨论。这次讨论事关吉卜力未来将作为怎样的公司发展这一重大议题。具体来讲,就是工作人员的待遇以及对新人的录用和培养。
 在日本动画界,通常采用“按绘制画面数和上色画面数结算”和设定工资的“多劳多得制”,当时的吉卜力也采用的是这种制度。其所导致的结果是,创作《魔女宅急便》的工作人员的收入才刚到一般人工资一半这一严酷现状。
 就此宫崎骏导演提出两个意见。
  1、将工作人员的收录为公司正式员工,并导入固定薪酬制度。争取达到工资翻倍。
  2、定期录用并培养新人。
 和吉卜力的状况相反,当时的日本动画界正在不断走下坡路。宫崎骏导演判断,在这种情况下,要想创作优秀的作品,维持根据地、确立组织、将工作人员收录为公司正式员工、完善研修制度这几点缺一不可。由此公司方针发生了明确转变。这便是吉卜力二期的开始。在这过程中,也得到了来自德间社长的支持。
 另外,身为制作人的铃木也是在这一时期辞去其他工作,专职于吉卜力的。在此之前,他一直担任德间书店发行的动画专门杂志《Animage》的主编。自1978年参与创刊《Animage》和1983年德间书店开始制作《风之谷》以来,铃木便兼顾杂志的编辑与吉卜力的电影制作。
 就这样,吉卜力着手制作高畑勋导演的《儿时的点点滴滴》。然后,正如前文所说,从作品制作中的1989年11月开始,公司便开始陆续执行各项措施——如将工作人员收录为公司正式员工,并创设动画研修生制度、每年定期录用新人等等。
 1991年上映的《儿时的点点滴滴》,一扫上映前发行相关人士的不安,广受欢迎。和《魔女宅急便》一样,成为当年日本第一受欢迎的电影。更让人欣喜的是,宫崎骏导演提出的两大目标都得以达成,即工资翻倍和新人录用。然而,某个问题也渐渐浮出水面。那就是制作经费的大幅提高。这是制作前就了然于心的事。究其原因,动画制作费用的约八成都来自于人工费,如果工资翻倍,那么自然制作费用也接近翻倍。
 “吉卜力第2期”的新方针,必然性地令相关人士的目光转向宣传和票房方面。既然制作经费的大幅上涨难以避免,那么只能通过有计划、有意识地采取措施来相应增加观众人数。虽然在此之前也不是没有考虑过这点,但这部《儿时的点点滴滴》,是成为吉卜力决定认真对待宣传的契机的作品。
 当时身为吉卜力负责人的原彻先生所提出“吉卜力是3H”这一说法也正是在这一时期。所谓3H指的是高投入、高风险、高回报(HIGH COST, HIGH RISK, HIGH RETURN)。投入重金制作高质量作品,怀抱着巨大不安,然后积蓄巨大财富。虽然这已经是很久以前的口号,但至今仍是通用的。话虽如此,关于高回报这一点,即使如其所说获得高额收入,也会立刻全部投入下一部作品的制作中,手头几乎一点不剩。而拥有正式员工便意味着每个月都要支付工资。吉卜力正是这样将自己逼迫到不得不持续创作作品的境地之中的。背负着持续创作宿命的吉卜力在制作《儿时的点点滴滴》的同时也开始了《红猪》的制作。而对吉卜力来说制作档期上发生重叠也是他们首次经历的。毕竟是《儿时的点点滴滴》制作的紧要关头,明明已经忙得焦头烂额,根本不知道他们要怎么分出人手去制作《红猪》。结果,着手《红猪》制作的只有宫崎骏一个人。宫崎骏曾如此抱怨道:“制作内容以及其他的所有工作,都准备让我一个人干吗?”虽然抱怨是抱怨完了,但还是只能由他一个人包揽主要工作。
ジブリ新スタジオの建設
吉卜力新工作室的建设
 そんなストレスを解消しようとしたのか、宮崎が唐突にいいだしました。「新スタジオを建てよう!」と。いちばん大変なときにもっと大変なことを持ち出して、抱えている問題の打開を図るというのが、いつもの宮崎のやり方です。しかし、このとき立てた理屈は人を感心させるものがありました。優秀な人材を確保しようというのに、仮の住まいでは説得力がない。容れ物があってはじめて人は集まるし、また人は育つというのです。スタジオはもうこれ以上は切り詰められないというほど、手狭になっていました。300平米に90人近くのタッフがひしめき合って仕事をしていたのです。しかし、新スタジオを建てるお金は当時のジブリにはありませんでした。
 常識を楯に大反対したのが当時の社長だった原でした。内心無茶だと思いつつ「何とかなるだろう」と考えたのがぼくです。そして、またぞろ大賛成してくれたのが徳間社長でした。妙なはげましのことばも掛けてくれました。「鈴木くん、金は銀行にいくらでもある。人間、重いものを背負って生きてゆくもんだ。」こういう人生観もあるのかと不思議な感動にとらわれたのを覚えています。「考えがちがう」と言い残し、原がジブリを去りました。
 この年の宮崎駿は八面六臂の大活躍、本当に天才でした。「紅の豚」を作りつつ、そのかたわら、自ら設計図をひき、イメージを建設会社と打ち合わせ、完成予想図を描き、素材の見本を取り寄せ、選択し、決定しました。1年後、「紅の豚」と新スタジオはほぼ同時に完成。「紅の豚」の公開直後、ジブリは東京都小金井市に建てた新スタジオに引っ越しました。
 参考までに、現在のスタジオをご紹介すると、第1スタジオが敷地面積は約1100平方メートル、フロアー面積もほぼ同じ。鉄筋コンクリートの地上3階地下1階です。緑や木が多いことが特長で、屋上も宮崎監督の発案により、後から緑地化しました。
 99年春には第1スタジオの向かいに第2スタジオを建設、2000年3月にはその隣に第3スタジオも完成しました。どちらも基本設計はやはり宮崎駿であり、あまり広くはありませんが木造なので、より暖かみのある職場になっています。中でも、第2スタジオには1階にコントロールルームとノンリニア編集室があり、地下は試写室、兼・録音スタジオが入っています。
 或许是为了排解压力,宫崎骏唐突地提出了如下提议:“来建设新的工作室吧!”在最紧张的时期提出更出格的事情,以图解决目前面临的僵局,这正是宫崎骏一直以来的处事方法。然而,在这个时候他所摆出的理由也有值得称赞之处。为了留住优秀的人才,没有正式的住所可说不过去。有了相应的场所才能聚集并培养人才。当时的工作室就是处在这样一种腾不出更多空间的狭窄环境中。在300平方米的空间内,将近90位的工作人员挤在一起工作。可是,当时的吉卜力并没有足够的钱来建设新工作室。
 当时的社长原彻以常识为由坚决反对这一提议。我虽然心里觉得这很乱来却也认为“拼一把总能办成的”。而这时候举双手赞成的仍然是德间社长。他说出了一番听上去有些奇怪的激励人心的话:“铃木,银行里要多少钱有多少钱。但人类必须背负着沉重的东西生存下去。”我至今仍记得那种因世上还存在着这种人生观而感到的不可思议的感动。留下“道不同不相为谋”这句话,原彻离开了吉卜力。
 这一年的宫崎骏可谓是施展三头六臂之力充分活跃,真的堪称天才。一边制作《红猪》,一边亲自画设计图,和建筑公司商谈工作室的构想图,然后描绘完成预想图,索要素材样品、选择素材,最后决定使用哪种素材。一年后,《红猪》和新工作室几乎同时完成。《红猪》上映后不久,吉卜力就搬到了位于东京都小金井市的新工作室内。
 作为参考,介绍一下现在的工作室,第1工作室占地面积约1100平方米,建筑面积也基本相当。是钢筋混凝土构造的地上三层加地下一层的建筑物。特点是绿化较多,楼顶也因宫崎骏导演的提案,之后全部进行了绿化。
 1999年春季,在第1工作室的对面建成了第2工作室,接着在2000年3月,相邻的第3工作室也建设完成。基本设计均由宫崎骏负责,虽然不算宽阔,但因为是木造建筑,室内较为温暖。其中,第2工作室里设有控制室和非线性编辑室,地下则设有试映室和录音工作室。
ジブリの特徴
吉卜力的特征
 1993年、ジブリはコンピューター制御の大型撮影台を2台導入し、念願の撮影部を発足させました。こうして、作画から美術・仕上・撮影に至るまでの全部門を持つスタジオに成長したわけですが、これは、分業が極度に進行している日本のアニメーション業界とは完全に逆の方向です。これまた、同じ場所で緊密に連携しながら一貫して作業を進めることが作品の質の向上につながる、という理由からです。
 この93年、初めてテレビ向けの作品も制作しました。「海がきこえる」です。監督は当時34歳の望月智充。高畑・宮崎以外の人間が初めて担当したわけです。制作スタッフも2〜30代の若手を中心に編成、「早く安くうまく」を合言葉に制作に入ったのです。この70分のテレビ・スペシャルは、一定の評価は得ましたが、結局予算とスケジュールを大きく超過してしまいました。テレビはジブリの今後の大きな課題です。
 1994年の高畑監督作品「平成狸合戦ぽんぽこ」は、またもこの年の邦画No.1となりました。「おもひでぽろぽろ」以降に採用したジブリ育ちの若いアニメーターたちが作画の中心を担い、大いに力を発揮してくれた作品です。また、「平成狸合戦ぽんぽこ」で、ジブリは初めてCGを導入しました。このときは3カットだけでしたが、今から思えば、これが後のCG室設立につながる流れの始まりでした。
 95年の夏に公開された「耳をすませば」では、宮崎がプロデューサー・脚本・絵コンテを担当し、これまで「火垂るの墓」「魔女の宅急便」「おもひでぽろぽろ」のジブリ作品で作画監督などを担当してきた近藤喜文が初監督に挑戦するという新しい布陣を敷きました。また「デジタル合成」を採用することで、制作現場へのデジタル技術導入を加速させるきっかけにもなりました。思春期の爽やかな出会いを描いた「耳をすませば」もその年の邦画No.1になりました。
 その後、「もののけ姫」では初めてデジタルペイントを採用し、完成後には社内に本格的なCG部を設立。その後、CG部はデジタル作画部と名を変えて、「ゲド戦記」まで映画制作に大いに貢献しました。しかし、その後は、作画方針の変更もあって、CG部は縮小され映像部に吸収されて現在に至ります。
 ちなみに現在スタジオジブリに社員として所属するのは、制作系のスタッフとして作画・デジタルペイント・美術・撮影・映像・音響制作・演出・制作部門があわせて約100人、事務系のスタッフとして業務・出版・商品・海外事業・イベント・管理部門・その他で50人の合計計150人です。こうやって比較するとおわかりのように、その3分の2が映像を作る作業に関わるスタッフです。ジブリ作品は他のスタジオに比べるとコスト高だという話を繰り返ししてきましたが、映画制作に必要なほとんどの作業を社員スタッフでまかなっていることが大きく影響しています。このことが、良質な作品を作り続ける上で大きく貢献している特長なのですが、見方を変えると弱点のひとつだといえるかもしれません。
 1993年,吉卜力导入两台计算机控制的大型摄影台,创立了心心念念的摄影部。这样一来,吉卜力终于发展为设有从作画到美术、上色、摄影全部门的工作室,但这却和分工愈加细致的日本动画业界发展趋势完全背道而驰。吉卜力的理由依然是——像这样在同一个场所保持紧密合作和连贯作业,与作品质量的提升息息相关。
 同样是在1993年,吉卜力制作了首部面向电视的作品——《听到涛声》。导演是当时34岁的望月智充。这是首次由高畑勋和宫崎骏以外的人担任导演。制作人员也以20至30岁左右的年轻人为中心构成,将“又快又好又便宜”作为口号进行制作。这部70分钟的电视特别篇虽然获得了一定的好评,但是从结果上来看预算和日程都远远超出了事先的安排。而电视动画也成为了吉卜力今后的重要课题。
 1994年高畑勋导演的作品《平成狸合战》,再度成为当年日本电影的第一名。《儿时的点点滴滴》后录用并培养的吉卜力新人动画人们在此次作品中担任主力,发挥了极大作用。另外,在《平成狸合战》中,吉卜力初次导入CG技术。虽然仅有3个镜头,但现在想来,这或许就是之后设立CG室的起点。
 于1995年夏季上映的《心之谷》中,宫崎骏担任制作人、编剧,并绘制了分镜,而此前在《萤火虫之墓》、《魔女宅急便》、《儿时的点点滴滴》等吉卜力作品中担任作画导演的近藤喜文则首次挑战了导演职务。此外因采用了“数码合成”的技术,这也成为制作现场加入导入数码技术的契机。描绘青春期清新邂逅的《心之谷》也成为该年日本电影的第一名。
 这之后,《幽灵公主》首度采用数码绘画技术,作品完成后公司内部正式设立CG部门。随后CG部更名为数码作画部,为至《地海战记》为止的电影制作做出了巨大贡献。不过,其后随着作画方针的变动,CG部规模有所缩小并被纳入了影像部。
 顺带一提,如今吉卜力工作室内部,公司员工各自从属于制作相关和事务相关部门。其中制作相关部门又分作画、数绘、美术、摄影、影像、音响制作、指挥、制作等共计约100人;事务相关部门又分业务、出版、商品、海外事业、活动、管理、其他等共计50人,合计150人。这样一比较便可以得知,工作人员中的三分之二都与电影制作相关。虽然吉卜力的作品相比其他工作室而言,耗资较高这一点之前被反复诟病,但这也是受到电影制作的必要工作几乎全由公司员工负责的情况所影响的。这一特点虽说对不断制作优秀作品做出了很大贡献,但根据思考角度不同或许也会成为工作室的弱点之一。
ジブリの宣伝戦略
吉卜力的宣传手段
 さて、ジブリ映画の宣伝に関する話です。スタジオジブリの特色は、「内容的な評価」と「興行的な成功」を両立させている点にあるといえます。日本の映画界は依然として順調ではありません。その中で、ここ最近のジブリ作品は、ほぼ、興行において成功し続けています。そのポイントは、大きくいって3つあります。
 第1に、当然のことですが、作品の完成度の高さ。画面の緻密さには定評がありますが、内容面では、常に現代性を第一に考えたテーマ設定をしていることも大きな特徴です。「平成狸合戦ぽんぽこ」でいうなら、狸たちを描きながら、それが日本人と重なり、戦後50年を振り返るという映画になっています。「もののけ姫」のタタラ場のように、善悪で単純に割り切れない舞台設定は、現代そのものと言えるでしょう。そういうテーマを、高畑・宮崎という監督の指揮下、高度な技術による高品質な映像で作り出すのです。内容が薄ければ、たとえどんな大宣伝を行っても継続的な成功はありえません。
 第2が、過去に積み上げてきた実績です。ジブリ作品といってもすべてが興行的に大成功してきたわけではありません。具体的には、先程述べましたように「魔女の宅急便」からです。しかし、この大成功には前作品「となりのトトロ」「火垂るの墓」の2作の存在が非常に大きいのです。この2作品は同時公開されましたが、公開時点ではそう大きな興行成績をあげたわけではありませんでした。しかし、内容的には非常に評価が高く、その後のビデオ販売やテレビ放送で、いわゆるアニメファンの枠を大きく越えた一般的な大きなファン層を開拓したのです。この下地があったからこそ、「魔女の宅急便」の成功が生み出されたのです。その後は、回を重ねる毎に、前作の内容的な成功が次の作品の興行的成功を支えるという、幸福な連鎖が生まれています。
 第3が、確たる方針で展開される大規模な宣伝です。日本においては、すでに映画は娯楽の中心ではありません。平均すると日本人ひとりが年間1本しか映画を見ていない計算になります。単にいい映画だというだけでは、お客さんは見に来てくれません。それを突破するには、大宣伝によって映画をイベント化する必要があります。つまり、ジブリ作品はほとんどが夏に公開されていますが「この夏、絶対に見た方がいい話題の中心」という空気を、全国的に作り出すのです。
 宣伝といっても、いわゆる映画宣伝だけではありません。現状では、限られた予算のなかから、宣伝費に大きなお金を投入することがムリなので、いろいろな形でお金のかからないタイアップや、パブリシティに力を入れています。
 こういった宣伝の場合、スタジオジブリとして一番注意していることが、宣伝ターゲットです。アニメーションというと、日本でも子供のものという印象がつきまといます。しかし、日本の映画は若い女性層を獲得しない限り、大ヒットは望めませんし、同時に親子を大動員することも非常に重要です。したがって、ジブリ作品においては、子供から大人までの広い範囲をねらったフル・レンジの宣伝を展開するのです。その場合、特に、大人の鑑賞に耐えうる高度な作品であることを強くアピールすることが大事です。
 そして、公開直前に行われる全国キャンペーン。監督やプロデューサー自らが、文字どおり全国の主要都市を宣伝してまわるのですが、毎日都市から都市へと移動しますし、スケジュールは分刻みなので本当に大変です。しかし、これによって各地域の地元メディアに取り上げてもらえる量がグンとアップするのです。情報がどんどんローカルに限定される傾向が生まれ、東京発の情報が地方に届きにくくなっている現在、地元メディアに対するアプローチはもっとも忘れてはならない宣伝といえます。
 ともかく、ジブリは映画を作ったらそれでおしまいではなく、宣伝にも自ら深く関わって、何とかヒットするように毎回動いてきました。情報化社会、そして娯楽が多様化した現代においてはそうせざるを得ないのです。作品製作を続けようとする限り、このスタイルは続くでしょう。
 那么,接下来就说说有关吉卜力电影宣传的事。吉卜力工作室的特色,便是在“内容口碑”和“票房成功”间取得很好的平衡。日本电影界的境况依旧不容乐观。在这当中,最近的吉卜力作品却几乎都维持着票房上的成功。关于这点,可以大致分为三个原因。
 第一点,自然就是作品的高完成度。细致的画面已经成为固定的优势,在内容方面,经常最优先考虑题材现代性后再设定主题也是其重要特征。以《平成狸合战》为例,虽然描写的是狸猫们的故事,但从中也能看到日本人的影子,并借此回顾了日本战后五十年的历程。而像《幽灵公主》中的达达拉铁工厂这样,无法简单判定善恶的背景设定,可以说正是现代性最明显的体现。在高畑勋和宫崎骏这两位导演的指导下,这样的题材由高度技术制作成高品质的电影。如果内容单薄,那么就算在宣传上投入再大力度也是无法获得持续性成功的。
 第二点则是从过去积攒而来的实际成绩。就算是吉卜力作品也并非所有都收获了票房上的巨大成功。具体来说,像前文所说的一样,票房成功是从《魔女宅急便》一作开始的。不过,在此之前的作品——《龙猫》和《萤火虫之墓》也对该作的成功起到了至关作用。这两部作品虽然同时上映,但在上映当时并未斩获抢眼的票房成绩。但其内容上获得了极高的评价,以及其后随着录像带的发售和电视播放,在动画爱好者之外开拓出了一般观众粉丝群。正是有了这样的基础,才有了《魔女宅急便》的成功。之后便展开了前一部作品内容上的成功成为下一部作品票房成功的有力支撑这样的幸运连锁。
 第三点是通过准确的方针展开大规模的宣传。在日本国内,电影还未成为娱乐产业的中心产品。平均算下来一个日本人一年只看一部电影。单靠好口碑并不能吸引观众前来观看。要突破这一阻碍,便必须通过大力宣传使得观看电影变成一项活动。也就是说,绝大部分吉卜力作品都选择在夏季上映,正是为了在全国范围内营造出“这个夏天,不可不看的话题中心”这样的氛围。
 说是宣传,也不仅仅是通常所指的电影宣传。从公司现状来看,将有限的预算巨额投入进宣传费用中还十分困难,因此吉卜力选择将更多精力投入在不耗费金钱的各种形式的合作与广告活动中。
 在这样的情况下,吉卜力工作室最为注重的便是宣传受众。即便在日本,说起动画,也同样是给人一种小孩子才看的印象。但是,日本的电影如果不能获得年轻女性观众层的支持,就没法收获巨大人气,因此动员全家一起观看对于票房的成功至关重要。所以吉卜力的作品往往瞄准从小孩到大人的广泛年龄层,展开全方位宣传。在这种情况下,更需要特别强调出作品具有可供大人欣赏的足够深度。
 于是,在作品即将上映前,会开展全国范围的宣传活动。导演和制作人亲自上阵,在全国的主要城市展开宣传,每天奔波于各个城市,日程表甚至精细到分,实在是相当辛苦。然而正是因此,各地区的本地媒体报道量也大幅上涨。现如今,信息逐渐被地域范围锁定、来自东京的信息越来越难传达到地方,因此对各个地区当地媒体的宣传展示便显得至关重要。
 总而言之,吉卜力并不仅仅停留在制作电影,在宣传方面也是亲力亲为,为了获得人气每次都会出动。在信息化社会,同时也是娱乐多样化的当今社会,这种做法也是无奈之举。只要想继续创作作品,这样的方式应该也会一直保持下去。
「もののけ姫」で記録を作ったジブリ
以《幽灵公主》创下记录的吉卜力
 95年、スタジオジブリは、長編第11作、宮崎監督5年ぶりの完全オリジナル作品となる「もののけ姫」の制作に入りました。実は「もののけ姫」は企画そのものが冒険でした。いまどき流行らない時代劇、製作費が従来の倍の20億円、そしてライバルは「ロストワールド・ジュラシックパーク」。普通に考えたら回収は不能です。しかし、時代劇は宮崎監督長年の念願でした。彼の年齢やスタッフ編成などを考えると、作るなら今しかない、という状況でした。「もののけ姫」の企画には関係各社の誰しもが不安を覚えましたが、最後にGOサインを出したのはやはり徳間社長でした。足かけ3年がかりで製作したこの作品は97年夏に公開されるや関係者の予想を遥かに超える大ヒットとなり、あの「E.T.」を抜いて、それまで日本で公開された邦画・洋画すべての映画の記録を塗り替えました。
 「もののけ姫」は単なる映画の枠を超えて社会現象になり、多くのメディアで様々な人が、この作品について語り合いました。もちろん世間のいたるところでも話題になり、ジブリの名前を広く認知させることになりました。
 そんな中、悲しい出来事もありました。98年1月、「耳をすませば」の近藤喜文監督が亡くなったのです。47歳でした。数多くの高畑・宮崎作品を支え続けた、間違いなく世界でも屈指の天才アニメーターでした。日を追うに従って、彼の不在が大きく感じられます。
 次にジブリが取り組んだのは「ホーホケキョ となりの山田くん」でした。原作はいしいひさいちさんの4コママンガで、脚本・監督は高畑勲、公開は99年夏。「山田くん」は全編フルデジタルで制作された最初のジブリ作品です。ジブリとしてはデジタル化が絶対に良いと思っていたわけではありませんが、セルなど素材の供給に不安が出てきたため、「もののけ姫」制作終了後、仕上・撮影部門の全面的デジタル化に踏み切りました。作画や背景画は従来通り手描きですが、それ以降の工程がすべてコンピューターで行われるようになったのです。
 残念ながら「山田くん」は大ヒットというわけにはいきませんでした。しかし作品自体は大変高い評価を得ることが出来ました。1作1作を確実にヒットさせなければならないジブリのあり方は変わっていません。が、常に挑戦し、冒険し続けてきたのもジブリです。超大ヒット作「もののけ姫」の後にこういう作品を作り世に送り出したのも、ある意味で大変ジブリらしいのではないでしょうか。
 1995年,吉卜力工作室开始制作长篇动画第11部作品,也是宫崎骏导演时隔五年的完全原创作品——《幽灵公主》。实际上,《幽灵公主》的企划本身便极具风险。现在已不再流行的古装剧题材、制作经费为20亿日元,是此前制作作品费用的翻倍,再加上《侏罗纪公园》这一强劲竞争对手,按一般观点来看,想回收成本几乎是不可能的。可是,创作一部古装剧是宫崎骏导演长年的心愿。考虑到他的年龄和制作人员构成,要想做也只有抓住这次机会。虽然相关公司的众人都对《幽灵公主》的企划怀揣不安,但最后给出“可以制作”信号的果然还是德间社长。足足花费了三年时间制作而成的这部作品,在1997年夏季得以公开,收获了远超相关人士预想的无与伦比的人气,甚至超越《E.T.》,刷新了此前在日本上映过的包括日本电影和外国电影在内所有电影的票房纪录。
 《幽灵公主》已然超越电影本身而成为一种社会现象,在许多媒体上,各种各样的人就这部作品展开了热烈讨论。当然,它也在整个社会成为话题,使吉卜力的名号更加响彻日本。
 在这期间,也有令人悲伤的消息。1998年1月,曾执导《心之谷》的近藤喜文导演离开人世,享年47岁。他支持了高畑勋和宫崎骏的多部作品创作,是毫无疑问的世界范围内屈指可数的天才动画人。伴随时光流逝,也更令人惋惜他的逝去。
 吉卜力下一部着手制作的作品是《我的邻居山田君》。原作是石井寿一先生的四格漫画,编剧、导演是高畑勋,于1999年夏季上映。《我的邻居山田君》是首部全篇采用数码技术创作的吉卜力作品。虽然对吉卜力来说数码化并非毫无缺陷,但出于对赛璐珞等素材供应方面的不安,在《幽灵公主》的制作结束后,上色、摄影部门毅然推行全面数码化。作画和背景画虽依旧手工绘制,但之后的工作便全部交由电脑来完成。
 非常遗憾的是,《我的邻居山田君》并未取得很大人气。然而作品本身依旧收获了很高的评价。必须让每一部作品都大受欢迎这一吉卜力方针仍未改变,但同时,时刻进行挑战、在冒险之途不断前行也是吉卜力的精神。在超人气作品《幽灵公主》后便为世人带来这样的作品,某种程度上来说也很有吉卜力的特色。
ジブリ作品の海外進出について
吉卜力作品的海外发展
 ジブリ作品の海外上映は、10年前までは香港・台湾などのアジア地域が主でした。海外の興行に興味がなかったので、こちらから積極的に売り込むことはしてこなかったのが主な理由です。しかし90年代中頃から様子が変わってきました。まず「となりのトトロ」がアメリカで劇場公開され、続いてフォックスビデオから発売された同作品のビデオソフトは、60万本の売上を記録しました。これは、日本映画のアメリカでの展開としては画期的なことでした。また「平成狸合戦ぽんぽこ」がアカデミー賞の外国語映画部門の日本選出代表に選ばれるという出来事もありました。
 そして96年、ディズニーとの間で、新作「もののけ姫」とそれまでのジブリ作品を世界配給するという提携の話が持ち上がりました。我々はかねてから、きちんとしたお話ならば受けていきたいと考えていました。国籍・人種を問わず、沢山の人に見てもらい、喜んでもらえるのは作り手としては何よりも嬉しいことです。ディズニーなら、作品を大事にしてくれる。そんな考えのもと、我々はディズニーと提携することを決めました。
 この提携により、まず「魔女の宅急便」がビデオで98年9月に北米で発売され、大変好評を博しました。そして英語吹替版の「もののけ姫」が全米で99年10月に劇場で封切られ、多くのメディアで絶賛されました。残念ながら興行成績は振るいませんでしたが、宮崎監督とジブリの名は、はっきりとアメリカでも認識されるようになりました。フランスでは2000年の1月より公開され好成績を収め、以後ヨーロッパの他の国や南米などでも順次上映されています。
 ただ、ディズニーとの提携によって、今後ジブリは、あらかじめ世界市場を考慮に入れて、いわば多国籍企業的なマーケティング戦略で作品を作るのかといったら、それは違います。これまで通り、まず日本を対象に一所懸命作品を作り、海外はその後で考えるという方針が今後も続くでしょう。それは「もののけ姫」後の最初の作品に「山田くん」を作ったことにも如実に表れています。
 吉卜力作品的海外上映在10年前为止还以香港、台湾等亚洲地区为主。主要原因是公司对海外票房不甚感兴趣,因此公司方面并没有积极对外销售。但到了90年代中期,情况也随之一变。先是《龙猫》在美国影院上映,紧接着由福克斯发行的这一作品的录像带,创下了60万张的销售记录。这在日本电影的海外发展史上堪称划时代事件。此外《平成狸合战》在那年的日本电影当中被选为日本代表冲击奥斯卡金像奖最佳外语片奖。
 接着在1996年,和迪士尼合作将新作品《幽灵公主》和此前的吉卜力作品在世界范围内发行这一合作议题也被摆上了台面。我们在很早以前就考虑过想要接受此类商谈。不问国籍与人种,如果能使更多的人欣赏到我们的作品并从中感受到喜悦,对于制作者来说这是最令人开心的事了。而且迪士尼一定会好好对待这些作品。考虑到这些因素,我们决定与迪士尼合作。
 通过这次合作,首先是《魔女宅急便》于1998年9月在北美以录像带形式发售并大受好评。紧接着是英文配音版的《幽灵公主》于1999年10月在全美影院初次上映,也获得媒体一致好评。遗憾的是票房上未能取得佳绩,但宫崎骏导演和吉卜力却由此在美国被众人所熟知。而2000年1月起在法国的上映则收获不错的票房,之后在欧洲其他国家及南美也陆续上映。
 只是,我们并不能说由于和迪士尼间的合作,便认为吉卜力在今后会优先考虑世界市场,也就是以国际化企业的市场战略来创作作品。像之前一样,吉卜力会继续保持首先以日本为对象全力制作作品,其后才考虑海外发展的方针。这一点从《幽灵公主》后最先制作的是《我的邻居山田君》一事中也能得到如实反映。
「千と千尋の神隠し」の世界的な成功
《千与千寻》世界范围的成功
 2001年7月、日本中に旋風を巻き起こした「もののけ姫」に続く宮崎監督の次回作として「千と千尋の神隠し」が公開されました。この作品は事前の予想をはるかに超える大ヒットとなり、「もののけ姫」の記録をすべて塗り替え、動員2350万人、興行収入304億円の日本における興行の新記録を作ったのでした。海外からの評価も高く、第52回ベルリン国際映画祭では日本人としては39年ぶり、アニメーションとしては史上初の金熊賞を受賞、翌年の第75回アカデミー賞では長編アニメーション部門のオスカーを見事に受賞したのです。
 また、翌年発売した同作品のビデオはDVDとVHS合わせて、550万本出荷という驚異的なヒット作となりました。10万本でヒット作といわれる市場で、この数字はいかに並外れたものかが理解してもらえるでしょうか。さらに半年後にテレビでOAされた際も、46.9%(ビデオリサーチ調べ)という驚異的な高視聴率を記録したのでした。これは1977年の調査以来、映画の視聴率では断トツの一位となります。
 この作品のヒットにより、スタジオの世間からの捉え方に大きな変化が生じました。「世界を席巻する日本のコンテンツビジネスの旗手=スタジオジブリと宮崎監督」という扱われ方です。当時、日本経済がすっかり自信を失っていたこともあるのでしょうが、世間からは世の中唯一の明るい話題、日本の希望の星として捉えられ、連日、経済誌や新聞の産業面の記者からの取材申し込みが相次ぎ、自治体や日本国政府までもが、ジブリをコンテンツビジネスの成功例として扱い始めたことに、正直なところ戸惑いを感じざるを得ませんでした。
 ただ確かに、このころ「チーム鈴木」という言葉が生まれたように、日本テレビやディズニー、三菱商事、電通、博報堂といった出資会社と、ローソン、読売新聞、第一興商といった協賛会社との連携が非常にうまく行って、興行に大きく寄与したことは事実です。そしてそれが、ビジネスモデルの成功例として捉えられても仕方ないことかもしれません。ただ、スタジオとしては、あくまでも、子供向けに高品質なアニメーション映画を提供し続けていくという志に一片の迷いもありませんが。
 ところで、2004年3月公開の、プロダクションIG制作、押井守監督作品「イノセンス」に製作協力として参加し、主に宣伝の分野で協力しました。これは見方を変えると、これまでに確立した「チーム鈴木」という宣伝協力体制をフルに活用する新たな試みでした。結果として大ヒットには至らなかったものの、押井守監督作品としては前作の10倍の興行成績をあげ、また、女性客の集客に成功した点でも十分に評価できる結果といえるのではないでしょうか。新たな問題として、シネコンを中心とした興行網に対するアプローチをどうすべきかという問題が急浮上してきたのですが、それはまた別のお話です。
 2001年7月,继日本掀起热潮的《幽灵公主》之后,宫崎骏执导的下一部作品《千与千寻》上映。这部作品获得了超过事前预期的绝大成功,刷新了《幽灵公主》创下的全部记录,创下观众人数2350万人,票房收入304亿日元的日本票房新纪录。该作品在海外也广受好评,在第52届柏林国际电影节上获得日本人暌违39年的金熊奖,更是动画作品史上首次获颁该奖项。第二年荣获第75届奥斯卡金像奖最佳动画长片奖。
 此外,在第二年发售的作品录像DVD与VHS合计生产数达到550万张这一惊人数目。在销售10万张就算得上是人气作品的市场景况下,不难理解这个数字是非常不同寻常的。接着,在半年后,该作品于电视上播放时,更是创下46.9%(据Video Research Ltd.调查)的高收视率记录。这是自1977年的调查以来,电影收视率中遥遥领先他作的当之无愧的第一名。
 因为这部作品取得的巨大成功,社会评价工作室的态度也产生了极大变化。“席卷世界的日本文化产业旗手=吉卜力工作室和宫崎骏导演”是当时的主流观点。当时,虽然日本在经济上完全丧失了自信,但吉卜力和宫崎骏导演被视为唯一的乐观话题、日本的希望之星,连日接到经济杂志和产业新闻记者的采访申请,就连自治体和日本国政府也将吉卜力视作文化产业的成功范例来对待,老实说对于这种态度我们曾经也很困惑。
 只是,正如此时诞生的“铃木团队”一词一样,和日本电视、迪士尼、三菱商事、电通、博报堂等出资公司,以及罗森、读卖新闻、第一兴商等赞助公司之间的合作进行得非常顺利,给票房也带来了很大保障。把这当做是商业模式成功的范本也是理所当然的事。不过,工作室自身从头到尾所想的只有继续创作面向儿童的高质量动画电影,这一点不会因任何事而动摇。
 于2004年3月上映的由Production.I.G制作、押井守执导的作品《攻壳机动队2 INNOCENCE》中,吉卜力作为制作协力参与制作,主要在宣传方面给予支持。换个角度来看,这正是将成立至今的“铃木团队”这一宣传合作体制的作用充分发挥出来的新尝试。虽然就结果而言影片并没有获得极大人气,但作为押井守导演的作品,其票房成绩还是达到了前一部作品的十倍,更值得一提的是,影片成功吸引了不少女性观众的注意。而此时又有一个新的问题浮现出来,那就是该如何对待以大型电影院为中心的票房关系网,当然这又是后话了。
「三鷹の森ジブリ美術館」の誕生
“三鹰之森 吉卜力美术馆”的诞生
 「千と千尋の神隠し」と並行して、宮崎駿はもうひとつの作品を完成させました。「三鷹の森ジブリ美術館」。美術館といっても単に飾ってある絵を鑑賞するだけではなく、空間その物を楽しみ体験することで心が豊かになる、極めてユニークな建物です。設計はもちろん宮崎本人で、2001年10月に開館しました。「紅の豚」のときと同様、宮崎駿は「千尋」と「美術館」の2本の作品を同時に作り上げるという離れ業を演じたのです。
 残念ながら、このふたつの作品両方にGOサインを出した徳間康快社長は、2000年9月、完成を見ずして帰らぬ人となりました。享年78歳。しかし、そのチャレンジ精神は、ジブリの在り方の基本として、これからも我々とともに生き続けるでしょう。
 ジブリ美術館は、開館から7年目に入った今も、完全予約制という特殊な運営方法を維持しながら、年間70万人のお客様に来館していただき、順調な運営を続けています。常設展の他に、これまでに企画展として、「千と千尋の神隠し」展や「天空の城ラピュタと空想科学の機械達」展などのジブリ作品を取り上げた企画展示や、「ノルシュテイン展」「ピクサー展」「アードマン展」などの世界中の良質なアニメーション作家やスタジオを紹介しながら、アニメーション文化の発信基地としての成果を確実にあげています。その証拠といえるかもしれませんが、2005年3月、宮崎吾朗館長は「三鷹の森ジブリ美術館での「ピクサー展」など一連の企画」を評価されて芸術選奨文科大臣賞新人賞を受賞しました。
 また忘れてならないのが、ジブリ美術館内の映像展示室「土星座」で上映されている短編アニメーションたちです。これまでにスタジオジブリが、「くじらとり」「コロの大さんぽ」「めいとこねこバス」「星をかった日」「水グモもんもん」「やどさがし」の6本のオリジナルアニメーションを制作し、現在も定期的に上映を続けています。美術館だけでしか観られないため、興行的な回収を考えないですむという利点を生かして、今後も意欲的な作品を定期的に提供していく予定です。
 在制作《千与千寻》的同时,宫崎骏导演又完成了一个新的作品——“三鹰之森 吉卜力美术馆”。虽然名为美术馆,但它不仅仅是观赏装饰着绘画的地方,而是可以沉浸在空间本身之中,让心灵获得愉悦和得以充分享受的极其特别的建筑物。设计方面自然由宫崎骏本人亲自负责,在2001年10月顺利开馆。和《红猪》的时候一样,宫崎骏再度完成同时制作《千与千寻》和“美术馆”两个作品这一创举。
 遗憾的是,给这两个作品释放“可以制作”信号的的德间康快社长却在2000年9月,没来得及见证最终成功便撒手人寰,享年78岁。但是,他所具有的挑战精神将作为吉卜力存在的基石,永远存在于我们的心中。
 吉卜力美术馆距今开馆已有7年,虽依旧维持着完全预约制这一特殊的运营方式,但每年仍有70万游客前来参观,经营得十分顺利。除常规展出以外,还有“千与千寻展”、“天空之城与幻想科学的机械展”等以吉卜力作品为主题的企划展,以及“诺里斯金展”、“皮克斯展”、“阿德曼展”等介绍外国优秀动画作家和工作室的展览。通过这些展览,吉卜力美术馆作为动画文化的传播基地取得了相当杰出的成果。而取得成果的佐证便是2005年3月,宫崎吾朗馆长以“三鹰吉卜力美术馆的皮克斯展等企划”的成就获艺术选奖文科大臣奖新人奖。
 此外不得不提的是,在吉卜力美术馆内设置的电影展览室“土星座”中所上映的数部短篇动画。至今为止吉卜力工作室已创作有《The Whale Hunt (捕鲸记)》、《Koro's Big Day Out (可罗的大散步)》、《Mei and the Baby Cat Bus (小梅与小猫巴士)》、《The Day I Bought a Star (买下星星的日子)》、《Mon Mon the Water Spider (水蜘蛛纹纹)》、《House Hunting (寻找栖所)》等六部原创动画,如今也在定期上映中。因为这些影片只有在美术馆内才能观看,所以便有不必考虑票房回报这样的优势,工作室今后也会积极地创作作品定期供馆内游客观看。
スタジオジブリのさまざまな挑戦
吉卜力工作室迎来的各种挑战
 「千と千尋の神隠し」の翌年、初の高畑・宮崎監督以外の監督作品として、森田宏幸監督作品「猫の恩返し」と百瀬義行監督作品「ギブリーズepisode2」の二本立ての興行を行い、65億円の興収を上げ、2002年度の邦画興行ナンバーワンの成績を収めました。高畑・宮崎ではない若い世代が制作した作品を公開する試みは、大変な好成績を収めました。
 また、2002年にはチェコの実写映画「ダークブルー」の配給宣伝に協力し、翌年にはフランスで大ヒットしたミッシェル・オスロ監督作品「キリクと魔女」の日本語吹替版を高畑監督が手がけ、ジブリとして配給宣伝に協力するなど、ジブリ作品に限らず、また実写、アニメーション作品に限らず、世界の良質な作品を紹介する試みも行なっています。
 スタジオジブリとは別の活動するために「スタジオカジノ」というブランドを立ち上げ、これまでに庵野秀明監督の実写映画「式日」(2000年)の製作・配給を行なったり、本広克行監督作品「サトラレ」(2001年)に参加し海外配給を手がけたりしました。
 その後2004年には、百瀬義行監督とcapsuleという音楽ユニットをプロデュースしている中田ヤスタカ氏とのコラボレーションで「ポータブル空港」(2004年)を「スタジオカジノ」ブランドで発表、その後も、「スペースステーションNo.9」「空飛ぶ都市計画」(2005年)というミュージッククリップを相次いで制作しました。この3部作はレトロフューチャーSFをテーマに、スタジオジブリが手がける作品として新たな方向性を提示することに成功したのではないでしょうか。
 このほか、2001年に制作したアサヒ飲料のCMを皮切りに、ローソンのキャンペーンCM、りそな銀行、ハウス食品「おうちで食べよう」シリーズ、読売新聞など、コマーシャルフィルムの制作が本格化してきたことが、新しい動きとしてあげられると思います。これまでにも、日本テレビの開局40周年記念のコマーシャルフィルムを作成したことはありましたが、定期的にこれだけの作品を作り始めたのはつい最近のことです。これらの制作で得られる対価は、今やスタジオ運営のための重要な収入となっていることは、否定できないでしょう。ただ、むやみにCMを受注しているわけではないのはいうまでもなく、あくまでも本業に影響を与えない範囲で、十分な報酬があり、クオリティにおいても妥協せずにすむ場合にのみ限られるのですが。
 フィルム制作とは別の事業にも本格的にも着手することになりました。イベントの企画・制作・運営です。これまでにも、各種のイベントは手がけてきましたが、映画公開時の宣伝の一環としての原画展やデパート展示がその中心でした。今回は事情が違っており、現代美術館館長に日本テレビの氏家会長が就任したことを皮切りに、「スタジオジブリ立体造型物展」「球体関節人形展」「漫画映画の全貌展」「大サーカス展」などを企画し参加してきたわけです。さらに、海外にも展示を貸し出すなど積極的な展開が続いていますが、これは、単に商業主義に走っているわけではなく、周囲からスタジオジブリに対する要望が引っ切り無しに寄せられており、それをすべて断り切れないというジブリの事情によります。つまり、それだけ、世間からの声が大きくなってしまったことの、ひとつの証だと思っています。
 その後、2007年に企画制作協力した「男鹿和雄展」は29万人もの観客を集める大ヒットを記録し、同美術館の一日当たりの動員数の記録を作りました。ジブリや宮崎・高畑の名前ではなく、男鹿和雄の名を冠した初めての試みでしたが、この記録的な大成功により、ジブリのイベントも新たな展開が期待できるのではないかと思います。
 《千与千寻》上映后的第二年,首次由高畑勋、宫崎骏以外的导演执导的两部作品——森田宏幸执导作品《猫的报恩》和百濑义行执导作品《the GHIBLIES episode 2 (吉卜力传2)》同时上映,成为2002年日本电影的票房冠军。作为由高畑勋、宫崎骏以外的新生代导演创作作品的试水上映,获得了不错的成绩。
 接着,在2002年吉卜力参与捷克的真人电影《铁翼蓝天》的发行宣传,第二年高畑勋导演则负责了在法国大受好评的动画《叽里咕与女巫》(米歇尔·欧斯洛执导作品)的日文配音版,吉卜力在其中协助进行发行宣传。不仅仅局限于工作室自己的作品,也不局限于是动画还是真人作品,吉卜力不断尝试着将世界其他国家的优秀作品介绍给广大观众。
 为了独立于吉卜力工作室个别展开活动,吉卜力成立了“卡吉诺工作室”品牌,至今为止该品牌参与过庵野秀明执导的真人电影《式日》(2000年)的制作与发行,以及本广克行执导作品《被偷听的人》(2001年)的海外发行。
 随后于2004年,百濑义行导演和音乐组合capsule的制作人中田康孝先生合作创作《Portable Airport (可携式机场)》(2004年),并以“卡吉诺工作室”的名义公开,后续又相继制作了《Space station No.9》及《Sora-tobu Toshi Kikaku(飞天都市计划)》(2005年)等PV动画。这三部曲以复古未来科幻为主题,作为吉卜力工作室经手的作品,成功地为工作室提意新的发展方向的可能性。
 除了上述所说的内容之外,以2001年制作的朝日饮料广告为开端,工作室正式涉足商业广告的制作。如罗森的活动广告、理索纳银行、好侍食品的“在家里吃吧”系列广告、读卖新闻等等,均可谓是工作室新的动向。此前工作室虽然也制作过日本电视台开办40周年的纪念形象广告,但定期开始制作这类作品还是最近才有的动作。通过制作这些广告而获得的报酬,对工作室来说是维持运营所必需的重要收入来源,这点是无法否定的。只不过,工作室当然也不会不加考虑地随意接受这类工作委托,最多是在不影响本职工作的范围内,有足够报酬且不会对质量轻易妥协的情况下才会接受。
 除了电影制作以外,工作室也正式开始涉及其他的事业,如活动的企划、制作与运营。至今为止,虽然工作室也有各类活动的策划经验,但都是以电影上映的宣传的某一环节为主,如原画展和商场展示等。这次却和以往的情况不同,以日本电视台的氏家会长就任现代美术馆馆长为开端,吉卜力接连参与了如“吉卜力工作室立体造型物展”、“球体关节人偶展”、“漫画电影全貌展”、“大马戏团展”等展会的企划。此外,吉卜力还积极展开面向海外的出借展示业务,但这并非纯粹出于商业利益的驱使,而是由于当时吉卜力接到的来自周围的热切邀请络绎不绝,实在无法全部回绝。这也从另一个方面印证了社会对吉卜力的期待愈趋高涨。
 之后在2007年,吉卜力协助制作企划的“男鹿和雄展”招揽了多达29万名来客,创下该美术馆一日来客数的新纪录。这次新尝试并没有依靠吉卜力或者宫崎骏、高畑勋两位导演的名气,而是仅凭借了“男鹿和雄”的名头,便在记录上取得了极大成功。这使得吉卜力在活动策划方面的新展开也更令人期待。
「ハウルの動く城」における試み
《哈尔的移动城堡》中的尝试
 2004年11月、宮崎駿監督最新作「ハウルの動く城」が公開されました。公開2日間の動員では日本映画歴代最高のオープニングを飾る大ヒットとなり、公開後6ヶ月で、興行収入においても動員においても「もののけ姫」を抜き、「千と千尋の神隠し」に続く、日本映画の興行史上第2位のヒット作品となりました。結果、日本映画の上位3作品を宮崎監督のジブリ作品で占めることとなり、ジブリとしては嬉しく思うというよりは、戸惑いの気持ちでいっぱいというのが正直な気持ちです。
 「ハウルの動く城」の宣伝戦略はこれまでとは少し違っていました。つまり「宣伝をしない宣伝」です。最近の洋映画の宣伝が事前にほとんどの情報をCMや紹介記事で見せてしまい消費していることで、観客は事前に観てしまった様な気分になり、映画館に足を運ばなくなったのではないかと考えたからです。
 この考え方に沿って、本格的な宣伝は公開前一ヶ月に集中し、地方キャンペーンもやめ、テレビスポットの投入も公開後を中心に据えました。また監督が作品を語ることもやめ、ストーリーもほとんど公開せず、予告編のテレビOAも見送ったのです。この宣伝方針は、ジブリにとって大きなチャレンジでした。いうなれば、これまでの宣伝戦略の否定ともいえるからです。結果として「ハウルの動く城」が大ヒットした現在、この挑戦はうまく行ったのではないかと判断しています。
 さらに「ハウルの動く城」は初の試みとして、日本国内での公開より前に、第61回ベネチア国際映画祭のコンペ部門に出品されました。結果は「オゼッラ賞」を受賞し、公開前の事前宣伝に大きく寄与しました。さらには、翌年の第62回の同映画祭で、宮崎監督の長年にわたるアニメーション映画制作に対して、「金獅子栄誉賞」が贈呈されました。
 2004年11月,宫崎骏执导的最新作品《哈尔的移动城堡》上映。上映仅两天时间,其观众数便成为日本电影史上的最强开场,上映六个月后,无论是票房收入还是观众人数都超越《幽灵公主》,排在《千与千寻》之后成为日本电影史上的票房亚军。就这样日本电影的前三名作品均由宫崎骏执导的吉卜力作品所包揽,但对吉卜力来说,比起高兴他们更多感到的是困惑。
 《哈尔的移动城堡》采取的宣传手段和以往相比有些许不同,一言以蔽之就是“不去宣传的宣传”。理由在于,最近外国电影的宣传大多在上映前就通过广告或者新闻报道等放出大量信息,给观众一种已经提前看过的感觉,这样观众就不会想再前往电影院观看。
 出于这种考虑,吉卜力在上映前一个月集中进行正式宣传,不再进行地区活动,在电视上的广告宣传也以上映后为主。此外导演也不再谈论作品内容,剧情也基本不透露,就连预告动画的电视播放都完全搁置。这样的宣传方针对吉卜力来说是很大的挑战。说起来这几乎算是将吉卜力此前的宣传手段全盘否定了。但就结果来看,《哈尔的移动城堡》收获了巨大成功,或许可以证明这次挑战取得了不错的成果。
 作为初次尝试,《哈尔的移动城堡》更是在日本国内上映前,就参展了第61届威尼斯国际电影节的竞赛单元并斩获“金奥萨拉奖”,这对上映前的宣传起到极大的正面效应。接着在第二年的第62届威尼斯国际电影节上,宫崎骏导演因长年以来对动画电影制作事业投入的心血而荣获荣誉金狮奖。
宮崎吾朗監督のデビュー
宫崎吾朗的导演出道作
 2005年4月、スタジオジブリは徳間書店と分離独立し、株式会社となリました。これまで、徳間書店の常務取締役であり、スタジオジブリの経営責任者であった、鈴木プロデューサーが代表取締役社長に就任しました。そんな新体制になったジブリにとって、新作の発表はいち早く待ち望まれているところでした。そんなジブリが次回作に選んだのは、宮崎吾朗監督の「ゲド戦記」なのです。
 「ゲド戦記」はジブリにとって、大いなるチャレンジでした。宮崎・高畑の名を冠しない単独上映の大作として、世間に真価を問うことにしたからです。また、それまで、アニメーション制作の経験がなかった宮崎吾朗監督にいきなり監督を任せるという決断も大いに世間を驚かせました。ご存知のように宮崎監督の長男である宮崎吾朗は、大学卒業後は造園の仕事に携わっていました。その後、ジブリ美術館の建設と運営を成功させ、愛知万博の「サツキとメイの家」の建設を指揮するなど、ジブリの仕事とはいえ映画製作とは関係のないところで活躍を続けていました。その宮崎吾朗が監督に抜擢されたのは、プロジェクトを統率する能力に秀でていたこと、絵コンテだけでなくレイアウトまで切れるだけの作画能力があること、物事の本質を見極める能力に秀でていたことを、プロデューサーの鈴木が見抜いていたことが挙げられます。
 結果、「ゲド戦記」は作画イン後、僅か10ヶ月という短期で完成させることに成功、制作コストアップの問題に悩むスタジオにとって、解決作に対する一筋の光明となったのも事実です。
 「ゲド戦記」は興行収入76.5億円、観客動員610万人のヒットを記録、2006年の邦画興行第一位となり、新人監督の興行の新記録を作りました。
 2005年4月,吉卜力工作室从德间书店独立出来,成为了股份有限公司。此前担任德间书店常务董事与吉卜力工作室的经营负责人的铃木制作人就任公司社长。面对建立了新体制的吉卜力,大众对新作品的发表更加翘首以待。吉卜力所选择的下一部作品,便是宫崎吾朗执导的《地海战记》。
 《地海战记》对吉卜力来说是很大的挑战。作为没有出现宫崎骏、高畑勋两位导演大名的独立上映大作,其真正的价值更将受到世人的考验。另外,让至今为止完全没有动画制作经验的宫崎吾朗出任导演一职也让人们感到十分惊讶。正如各位所知,宫崎吾朗是宫崎骏导演的长子,在大学毕业后就一直从事园艺相关工作。其后,他成功建设并运营吉卜力美术馆并指挥建设了爱知万博会的“小月和小梅之家”,在与电影制作无关的吉卜力工作舞台上持续活跃着。宫崎吾朗之所以被提拔至导演,乃是出于他对项目的出色领导力,从分镜到版面设计皆十分精通的优秀作画能力,以及能看清事物本质的能力。铃木制作人正是看中了他的这些能力而选择了他。
 最后,《地海战记》进入作画环节后,仅用了短短十个月的时间便完成了制作。这对当时苦恼于制作经费上涨的工作室来说,也带来了一丝解决问题的希望。
ジフリ美術館ライブラリー事業のスタート
吉卜力美术馆典藏事业的开始
 2007年1月、記者会見が開かれジブリ美術館ライブラリー事業のスタートが、ジブリ美術館の中島館長、シネマ・アンジェリカの畠中氏、ウォルト ディズニー スタジオ ホームエンターテイメントの塚越代表の出席のもと、高らかに宣言されました。これからジブリ作品だけではなく、高畑、宮崎監督が影響を受けた作品や、推薦する作品を過去作や世界中の作品から選んで、定期的に劇場公開し、DVDでライブラリーを作っていこうという主旨のプロジェクトです。前年の夏に公開したポール・グリモーの「王と鳥」の興行的成功を受けてのプロジェクトでした。
 第一回作品としてロシアの油絵アニメーション作家ペトロフの新作「春のめざめ」、その後、ミッシェル・オスロ監督の新作「アズールとアスマール」、宮崎監督運命の作品「雪の女王」と公開され、その後、高畑・宮崎の愛すべき作品「パンダコパンダ」、ロシアでもっとも愛されている人形アニメ「チェブラーシカ」、劇場では初興行となる「動物農場」、そして「ルパン三世」1st.シリーズを公開し、着実にファン層を広げながら成果を挙げています。今夏には「ウォレスとグルミット」の最新作の公開準備中です。
 このプロジェクトなどは、ジブリ美術館を中心に世界中に広がったアニメーションの巨匠たちとのリレーションなしでは成立できないものです。彼らの作品は一部を除いて商業主義とは一線を画した作品が多く、現在の日本では劇場公開もかなわない作品が多いことは、まことに残念な次第です。そこで、ジブリの名前を利用してもらってでも、素晴らしいアニメーション作品を少しでも世に広めることが出来ればという思い先行で行なっているものです。
 ジブリ美術館ライブラリー事業は、これから、新作映画の上映とともに、ジブリが特に力を入れて続けて行く事業になるのではと思います。
 2007年1月,吉卜力美术馆的中岛馆长、CINEMA ANGELICA的畠中先生及华特迪士尼工作室家庭娱乐公司的冢越代表共同出席记者见面会,会上正式宣布了吉卜力美术馆典藏事业的开始。这个项目意味着从今以后除吉卜力作品外,美术馆还将精心挑选受到高畑勋、宫崎骏导演风格影响的作品以及想要推荐给观众的往年作品和外国作品,定期在影院内上映,并以DVD的形式收藏于馆内。项目的执行实际上受到了前年夏季上映的保罗·古里莫执导的《国王与小鸟》票房成功的鼓舞。
 第一次放映的作品选择了俄罗斯油画动画家佩特洛夫的新作《初恋》,之后,米歇尔·欧斯洛的新作品《阿祖尔与阿斯玛尔》和改变了宫崎骏导演命运的作品《雪之女王》接连上映,随后是高畑勋、宫崎骏导演的心爱之作《熊猫家族》、在俄罗斯也广受好评的人偶动画《切布拉什卡》、初次在影院上映的《动物农场》,还有《鲁邦三世》的第一弹系列等等,切实地拓宽了粉丝层。预计于今年夏天上映的《超级无敌掌门狗》最新作也正在紧密准备中。
 如果脱离了以吉卜力美术馆为中心的世界范围内动画大师们建立的密切联系,这个项目也就无法成立。他们的作品除一部分之外都和商业主义划清界限,大多无法在现在的日本影院上映,这着实令人遗憾。因此,如果能用吉卜力的名号,让这些精彩的动画作品得以进入更多观众的视野就好了——怀揣着这样的心愿,吉卜力开展了这一项目。
 吉卜力美术馆的典藏事业,从今以后将与新作电影的上映一起成为吉卜力持续投入心血的事业。
宮崎監督4年ぶりの新作「崖の上のポニョ」
宫崎骏导演时隔4年的新作品《悬崖上的金鱼公主》
 「ハウルの動く城」以来の宮崎監督4年ぶりの新作である「崖の上のポニョ」は、コンピューターによる表現を一切廃し、徹底的に手描きによる表現にこだわった意欲作となりました。世界的に3Dアニメが主流となりつつある現代において、日本のお家芸とも言える、高畑や宮崎がその発展に貢献してきた2Dアニメーションに徹底的にこだわった本作は、今後もスタジオジブリは2Dを中心に作品作りを続けることを世間に高らかに宣言したわけです。そのポニョは高い評価と多くの人々の支持を得られ、観客動員1287万人、興行収入155億円の大ヒット作となりました。また、第65回ベネチア映画祭のコンペ部門にもノミネートされ、審査員や観客から熱い支持と評価を得られたことも、忘れられない出来事です。
 さらに、2010年夏には、「PONYO」として全米公開されました。上映館数はこれまで最大の927スクリーン。第一週目の興行成績は358万ドルで、ランキングの9位に入る成功を収めました。この成功は、全米での配給を手がけたキャスリーン・ケネディとフランク・マーシャルという大物プロデューサーの手腕によるところが大きいと思います。
 《哈尔的移动城堡》之后,宫崎骏导演时隔四年的新作品《悬崖上的金鱼公主》废除了一切电脑表现形式,彻底采用手绘,是饱含心血的诚意之作。如今,世界上3D动画已逐渐成为主流,但本作品严守被称为日本动画的祖传绝技,也就是高畑勋、宫崎骏两位导演做出过巨大贡献的2D动画制作,正是在向社会高调宣言,从今以后吉卜力工作室也将以2D为中心持续创作作品。另外令人难忘的是,作品还入选了第65届威尼斯电影节的竞赛单元,同样获得了评委和观众的热切支持与好评。
 接着在2010年夏季,《悬崖上的金鱼公主》以“PONYO”这一英文名于全美上映。上映数是至今为止最多的,共被搬上了927块银幕。第一周的票房成绩为358万美元,斩获票房排名第九位的佳绩。这次的成功,很大程度也要归功于凯斯琳·肯尼迪和法兰克·马歇尔两位知名制作人的出色才干。
若手監督の起用
发掘新人导演
 「崖の上のポニョ」の制作が終わると、宮崎監督は新たな5ヶ年計画を発表しました。2010年、2011年に若手監督で新作を発表し、その2年後に自分の監督作品を公開するという、ジブリでは始めての長期プランの策定でした。この方針に従って、まずは2009年の12月、次回作「借りぐらしのアリエッティ」を、企画・脚本 宮崎駿で制作し、2010夏に公開することを発表しました。大量消費時代にあって「借りぐらし」という設定が今の時代にぴったりだという宮崎監督の発案によるものでした。
 さて、では誰が監督になるのか?衆目の注目のもと、若手監督起用の第一弾として、スタジオジブリでトップアニメーターとして走り続けてきた米林宏昌が起用されたのです。この決定に当初困惑ぎみだった米林監督でしたが、持ち前の芯の強さで覚悟を決め、ベテランスタッフも一丸となって新人監督を盛り立て制作を続けました。結果として、「借りぐらしのアリエッティ」は、新人監督らしいみずみずしい感性と細やかなアニメートに裏付けられた作品として、世間からも大好評をもって受け入れられ、この年の邦画としてトップの興行成績を収めることができました。
 さらに「借りぐらしのアリエッティ」は、「The Secret World of Arrietty」として、2012年2月17日には全米でも1522スクリーンで公開。ジブリ作品最大規模での公開となりました。
 続いて2011年夏、「コクリコ坂から」が公開されました。若手監督起用作品の第二弾として、「ゲド戦記」に続く2作目監督作品として、宮崎吾朗監督を中心に制作されたのです。
 この年は誰しもが忘れがたい国難に直面した年でした。東日本大震災という未曾有の大震災が3月11日に発生したのです。震災直後、制作現場は一時、停止状態に追い込まれましたが、「我々がなすべきことは映画を制作すること。現場を放棄してはならない」という信念の元、監督らを中心に果敢にチャレンジ、多くの関係者の皆さんの協力や応援を得て、無事に公開することができました。この凄まじい自然災害の真っ只中にあって、世に送るにふさわしい作品であって欲しい、またこの作品が人々に元気を与えるものであって欲しいと願う中での公開でした。
 震災後の暗いムードもあって、のきなみ映画興行が苦戦する中で、この作品も少なからず影響を受けたのですが、それでも結果としては国内興行は44.6億円、動員355万人となり、2011年の邦画興行ナンバーワンとなったのです。
 年が明け2012年。更なる高見を目指して今度は、高畑勲監督・宮崎駿監督が新作に挑み続けています。ジブリの特徴として、いつも何か新しいことにチャレンジするという精神があります。確実にヒットを続けるなら、あるいは守りに入るならヒット作の続編やパート2をコツコツと送り出していくことの方が確実でしょう。ただ、ジブリはそういう選択は行ないません。無謀なことなのかもしれませんが、新たなる地平を求めて常に前進することこそ、スタジオジブリが持つ最大の特徴なのではないでしょうか。
 《悬崖上的金鱼公主》制作完成后,宫崎骏导演公布了新的五年计划。2010年、2011年将公开新人导演的作品,随之两年后将公开自己的导演作品。就这样,吉卜力工作室首度制定了长期计划。遵循这一方针,先是在2009年12月,发表了下一部作品《借东西的小人阿莉埃蒂》将由宫崎骏负责企划与编剧,并定于2010年夏季公开这一消息。这部作品的灵感来自于宫崎骏导演的提议,他认为在处于大量消费时代的当今,“借东西”这个设定正符合当下社会的现状。
 那么,谁会是这部作品的导演呢?在万众瞩目之下,作为发掘新人导演的第一弹,身为吉卜力工作室顶级动画师的米林宏昌被选为导演。虽然米林导演一度对这一决定极为困惑,但还是靠着与生俱来的顽强精神做好觉悟,和经验老道的其他制作人员团结一心,互相协助进行制作。从结果来看,《借东西的小人阿莉埃蒂》具有新人导演特有的细腻感性和细致作画,在社会上大受好评,成功收获该年度的日本电影票房冠军。
 《借东西的小人阿莉埃蒂》随后以“The Secret World of Arrietty”的英文名于2012年2月17日在全美1522块银幕上映。这是吉卜力作品史上最大规模的公映。
 接着在2011年夏季,《来自红花坂》上映。作为启用新人导演的第二弹,以宫崎吾朗导演为中心制作该作品,这也是他继《地海战记》之后导演的第二部作品。
 这一年也是日本人直面令人难以忘却的国难的年份。东日本大地震这一史上罕见的大震灾在3月11日发生。地震发生后不久,制作现场暂时处于瘫痪状态,但是抱着“我们该做的就是做好电影,绝不能放弃制作现场”这一信念,以导演们为中心果断展开挑战,并获得了许多相关人士的支持和援助,最终得以顺利上映。在这惨烈的自然灾害中,想要给人们送去抚慰人心的作品,也想要通过这一作品给人们带去活力。这部作品正是满含着这样的愿望于影院上映的。
 2012年,怀着对更宏伟的目标的渴望,高畑勋、宫崎骏两位导演继续创作新作品。这种常常向新事物发起挑战的精神,同时也是吉卜力的特征。如果想切实保持人气,或者说保持作品的高知名度的话,只要推出之前成功作品的续集或者是第二部分就可以了。但是,吉卜力并没有选择这么做。这或许谈不上是明智之举,然而向着新的高度不断前行,才是吉卜力工作室最大的特征。
宮崎駿監督・高畑勲監督の作品公開
宫崎骏、高畑勋执导作品的上映
 2013年7月20日、宮崎駿監督作品「風立ちぬ」、同年11月23日、高畑勲監督作品「かぐや姫の物語」が公開されました。高畑監督の新作は14年ぶりであり、まさに待望の新作でした。当初は同日公開を目指した2作品でしたが、「かぐや姫の物語」は制作が遅れたため4ヶ月遅れとなりました。前者は興行収入120.2億円、観客動員1000万人を達成、2013年の日本での興行成績第一位となり、第86回アカデミー賞の長編アニメーション部門にもノミネートされましたが、世界中で大ヒットした「アナと雪の女王」と争い、惜しくも2度目のオスカー獲得はなりませんでした。後者は、その芸術性や表現が高く評価され、興行収入25億円、観客動員200万人の結果となりました。
 「風たちぬ」の公開も続く9月6日、宮崎駿監督が突然、吉祥寺第一ホテルで記者会見を開き、長編映画制作からの引退を発表しました。国内外あわせて600名以上の記者が集まり、生中継のテレビを含めて70台のテレビカメラに囲まれる事態となり、世界中から引退を惜しむ声が上がりました。その後の宮崎監督は、自身が館主を務めているジブリ美術館の企画展示「クルミわり人形とネズミの王さま展」の制作や、漫画の執筆などで活動を再開しており、2014年11月には、米国アカデミー協会から"アカデミー名誉賞"の表彰を受けるべく渡米することになっています。
 2013年7月20日,宫崎骏执导的《风起》上映。同年11月23日,高畑勋执导的《辉耀姬物语》上映。这是高畑勋导演暌违14年的新作品,可谓是让所有人翘首以盼。虽然当初是打算同一天上映这两部作品,然而《辉耀姬物语》因为制作进度的原因推迟了四个月才与观众见面。前者不但是2013年日本票房第一的电影,也被提名为第86届奥斯卡最佳动画长片,与在全世界范围内大火的《冰雪奇缘》竞争,可惜最终与奥斯卡奖失之交臂。后者的艺术性和表现手法得到了广泛好评,更被提名为第87届奥斯卡最佳动画长片。
 在《风起》上映后的9月6日,宫崎骏导演突然在吉祥寺第一酒店召开了记者见面会,宣布将不再从事长篇动画的制作工作。此次见面会召集了国内外600名以上的记者,现场具有包括直播电视摄像机在内的70台摄像机,全世界都对他的隐退感到惋惜。在那之后,宫崎骏导演投身于自己担任馆主的吉卜力美术馆的美术展“胡桃夹子玩偶与硕鼠主题展”的制作,以及漫画创作等活动。2014年11月获美国奥斯卡协会颁发“奥斯卡终身成就奖”并飞赴美国。
「思い出のマーニー」の公開と制作部門の活動休止
《回忆中的玛妮》的上映与制作团队的停止活动
 2014年7月、米林宏昌監督の監督第2作「思い出のマーニー」が完成し、公開されました。これはジブリ作品としては初の"宮崎駿"の名前がクレジットされていない作品で、「かぐや姫の物語」を見事に世に送り出した西村義明プロデューサーと、前作「借りぐらしのアリエッティ」で大ヒットを飛ばした米林監督がタッグを組んだ意欲作でした。また、これまで実写映画の美術を手がけて、数々のヒット作に参加してきた種田陽平氏を美術監督に迎えるなど、新世代ジブリの到来を予感させる作品であったと思います。
 2014年8月、テレビのドキュメンタリー番組を通して、鈴木プロデューサーの口から「ジブリの制作部門の休止」が発表されました。スタジオは、再び変革の時を迎えつつあるといえるでしよう。しかし、スタジオジブリの航海はまだまだ続きます。
 2014年7月,米林宏昌导演执导的第二部作品《回忆中的玛妮》制作完成并上映。这是第一部制作人员中没有“宫崎骏”名字的吉卜力作品。也是成功制作《辉耀姬物语》的西村义明制作人和通过前一部作品《借东西的小人阿莉埃蒂》一炮而红的米林导演联手推出的呕心沥血之作。而且,随着有丰富真人电影美术负责经验并参加过不少大热作品制作的美术指导种田阳平的加入,这部作品可以说预示着新一代吉卜力的到来。
 2014年8月,通过电视的纪录片节目,铃木制作人宣布了了“吉卜力制作团队停止活动”这一消息,就这样,2014年末,工作室的制作部门被关闭,所属的制作人员也各自向新的人生目标扬帆起航。
スタジオジブリの作品がフランスからやってきた
从法国而来的吉卜力工作室作品
 制作部門が解散しても、スタジオジブリの活動は続きます。三鷹の森ジブリ美術館には毎日沢山のお客様に来館していただき、新しい企画展示も毎年5月にお披露目されました。ジブリ作品のブルーレイのリリースやCMの制作も続きました。国内外で、たくさんのジブリ関連の展覧会も開催されました。そんな日々の中で、新たなジブリ作品公開への挑戦も始まっていました。
 8分間で1人の女性の人生を描ききったマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督の短編映画「父と娘」("Father and Daughter"/旧題「岸辺のふたり」(2006年))。この映画に大変感心した鈴木プロデューサーは、それまで短編映画しか作っていなかったマイケル監督の長編映画を見たいと思うようになりました。そこで、スタジオジブリはマイケル監督に長編制作を打診、マイケル監督は、スタジオジブリが手伝ってくれること、高畑監督から助言を貰えることを条件に快諾したのでした。マイケル監督は、日本に滞在しながらシナリオ・絵コンテ制作を行ない、アニメーション制作の実作業はフランスのスタジオを中心に行なって、8年もの歳月をかけて長編映画「レッドタートル ある島の物語」を完成させたのでした。初めて外国人監督と協力し作った23作品目のスタジオジブリ長編映画は、2016年9月に日本全国で公開され話題となり、第69回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門特別賞、第44回アニー賞インディペンデント長編アニメーション映画賞を受賞した他、第89回アカデミー賞長編アニメーションにノミネートされるなど、国内外で高い評価を得ることができました。
 虽然制作团队解散,吉卜力工作室还是在运营着。三鹰之森吉卜力美术馆每天都会迎来大量的观光客,每年五月份也有新企划的展示。吉卜力作品的蓝光DVD以及广告的制作也一直在进行。国内外也不停地有大量吉卜力相关的展览。在这样的每一天里,开启了以新的吉卜力作品上映为目标的挑战。
 导演迈克尔·杜德维特的短篇作品《父亲与女儿》(原标题《岸边的两人》2006年)用8分钟的时间描绘了一名女性的人生。这部作品带给铃木制作人莫大的感动。而铃木制作人一直以来都热切期盼着能够看到迈克尔导演的长篇电影,就这样,吉卜力工作室向迈克尔导演试探是否有制作长篇电影的意愿,而迈克尔导演以高畑勋的指导和吉卜力工作室的协助为条件欣然承诺。迈克尔导演在留日期间内着手进行编剧和分镜的工作,而动画制作实则交由法国的工作室来完成,经过八年的漫长岁月,长篇电影《The Red Turtle(红海龟)》终于得以完成。首部由外国人执导并协助制作的吉卜力工作室第23部长篇电影于2016年9月在日本一经公开便成为热门话题,接连荣获第69届戛纳电影节“一种关注”单元特别奖、第44届安妮奖最佳独立动画长片奖,并被提名为第89届奥斯卡金像奖最佳动画长片,在国内外都受到广泛好评。
宮崎監督の引退撤回の決断
宫崎骏导演撤回隐退声明
 宮崎監督の長編映画引退宣言に伴う制作部門の解散で、しばらく長編映画制作を休止していたスタジオジブリですが、あらためて映画制作を再開することを決断しました。つまり宮崎駿監督の引退撤回です。その理由は「作るに値する題材を見出したから」。
 2017年5月19日、正式にジブリの公式HPで新作映画に向けて新人募集を行ない、スタジオジブリの制作部門の再構築が始まりました。引退会見からこの間、宮崎監督は、三鷹の森ジブリ美術館で上映する短編映画「毛虫のボロ」の制作に専念し、若いスタッフらと初の挑戦となるCGによる表現に意欲的に向かい合ってきました。そうした過程の中で、若い力を借りて、再び長編映画制作に挑む意欲が抑えられなくなったのです。世界中からの応募者の中から11人の新人が選ばれ、10月からスタジオに机を置いて新作に向けての研修が始まっています。
 こうしてスタジオジブリという小舟は、再び嵐の海に向かって帆を揚げたのでした。
 伴随着宫崎导演停止参与长篇动画制作的声明,制作团队也全部解散,吉卜力工作室原本已经决定暂时停止制作长篇电影,但最终又决定开始制作新的电影。也就是说,宫崎骏导演撤回了他的隐退声明,撤回的理由是“发现了有制作价值的题材”。
 2017年5月19日,工作室正式在吉卜力官网上为新电影的制作募集人手,吉卜力工作室的制作团队也开始重组。从隐退记者会到现在,宫崎骏导演一直都在专心制作于三鹰之森吉卜力美术馆上映的短篇电影《Boro the Caterpillar (毛虫波罗)》,同时也与年轻制作人员共同向此前从未使用过的CG技术发起挑战。在这过程当中,借助年轻一辈的力量,宫崎骏导演终于按捺不住心中重新制作长篇动画的热情。从全世界的应征者中挑选了11位新人,从10月开始了针对新作品的研究学习。
 就这样,叫作“吉卜力工作室”的小船,又一次向暴风雨肆虐的大海扬起了风帆。
2017.10. -
2017年10月

参考资料