文档:吉卜力工作室的歷史

出自宫崎骏与久石让中文百科
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吉卜力工作室的歷史 文檔 
スタジオジブリの歴史
吉卜力工作室的歷史
ジブリのスタート
吉卜力的起點
 スタジオジブリは、「風の谷のナウシカ」の内容的興行的成功を機に、「天空の城ラピュタ」製作時の1985年に、「風の谷のナウシカ」を製作した出版社・徳間書店が中心となり設立したアニメーション・スタジオです。以後、宮崎駿・高畑勲両監督の劇場用アニメーション映画を中心に製作してきました。ちなみに「ジブリ」とはサハラ砂漠に吹く熱風のことです。第2次大戦中、イタリアの軍用偵察機が名前に使用していましたが、飛行機マニアの宮崎がこのことを知っており、スタジオ名としたわけです。「日本のアニメーション界に旋風を巻き起こそう」という意図があったと記憶しています。
 ジブリのように原則的に劇場用の長編アニメーション、しかもオリジナル作品以外は製作しないスタジオというのは、日本のアニメ界では、というより世界的にも極めて特異な存在だと思います。なぜなら、興行の保証が得られない劇場用作品は、リスクが大きすぎるだけに、継続して収入が得られるテレビ・アニメーション・シリーズを活動の中心に置くのが常識だからです。日本でも、多くのアニメーション・スタジオがテレビ・アニメに基盤を置きつつ、たまに劇場用作品を作るというのが一般的です。そして、日本で作られる劇場用の映画も、じつは、評判のよいテレビ・アニメを映画化するというケースがほとんどです。
 もっとも、ジブリも最初から現在の体制で運営されていたわけではありませんでした。
 高畑と宮崎、現在ジブリの中心となっているふたりが出会ったのはそもそも今から30年以上も前のことです。当時ふたりが所属していた東映動画(現・東映アニメーション)は、まだ劇場用長編アニメーションだけを作っていました。何作か長編作品の製作に参加した彼らですが、時代の流れとともに活躍の舞台をテレビへと移さざるを得ませんでした。74年に放送されたテレビ・シリーズ「アルプスの少女ハイジ」(制作・ズイヨー)は、高畑が監督し、宮崎が絵を担当した作品ですが、これは、テレビ・アニメのひとつの到達点ともいうべき作品です。
 しかし、そういった作品群を産み出す中で、いつしか彼らは、自分達が目指しているリアルでハイクオリティなアニメーション作り----人間の心理描写に深く入り込み、豊かな表現力で人生の喜びや悲しみをありのままに描き出す----を実現していくのには、やはりテレビという、予算的にもスケジュール的にも制約の大きい媒体では不可能であるという結論に到達していくのです。それが「風の谷のナウシカ」以後のジブリ設立への原動力になったわけです。予算とスケジュールをかけて一作一作に常に全精力を注ぎ込み、すみずみまで目の行き届いた妥協のない内容を目指していく。しかも、それを宮崎・高畑というふたりの監督を擁し、監督中心主義で作る。ジブリの20年は、この姿勢を保持しながら、それでいて商業的な成功とスタジオの経営を両立させていくという困難な課題を、両監督の卓越した能力とスタッフの努力によって、かろうじてこなしてきた歴史であるといえるかもしれません。
 正直いうと、ジブリがここまで続くとは誰も考えていませんでした。一本成功したら次をやる。失敗したらそれで終わり。設立当初は、こういう考え方だったからです。ですからリスク軽減のために社員の雇用はせず、作品ごとに70人ほどのスタッフを集め、完成すると解散するというスタイルをとりました。場所は東京・吉祥寺の貸しビルのワンフロア。この方針を打ち出したのは、実は高畑勲でした。彼は「風の谷のナウシカ」をプロデュースしましたが、そのとき見せた実務能力が、ジブリのスタート時にも大いに発揮されたわけです。そして、「天空の城ラピュタ」も高畑勲プロデュース・宮崎駿監督で制作されました。
 「風の谷のナウシカ」は1984年の公開で91万5千人、「天空の城ラピュタ」は1986年で77万5千人の観客をそれぞれ日本国内で動員し、高い評価を得ました。
 吉卜力工作室是以《風之谷》的口碑票房雙成功為契機,在1985年製作《天空之城》時,以製作《風之谷》的出版社德間書店為中心創辦的動畫工作室。之後,工作室主要以製作宮崎駿與高畑勳兩位導演的劇場版動畫為中心。工作室名稱「吉卜力」乃撒哈拉沙漠上吹拂的熱風之意。第二次世界大戰中,此名稱曾被義大利軍方用作軍用偵察機之名,身為飛機狂熱愛好者的宮崎駿正是以此為來由而將工作室命名為「吉卜力」的,其中包含了他「在日本動畫界掀起一陣旋風」的期望。
 像吉卜力這樣原則上只製作劇場版長篇動畫,而且還是原創作品的工作室,無論是在日本動畫界,還是在世界上都是極為特殊的存在。究其原因,是因為製作一部票房無法得到保證的劇場版作品所需擔負的風險過高,因此將重心放在可以持續獲得收入的電視動畫系列上才是業界公認的常識。即使在日本,大多數的動畫工作室都將製作電視動畫作為基礎,偶爾才製作幾部劇場版動畫。而且,在日本製作的劇場版動畫,其實多數也是口碑好的電視動畫的劇場版作品。
 其實,吉卜力也並非從一開始就採取現在這種運營體制。
 高畑勳和宮崎駿——這兩位吉卜力如今的中心人物,他們的相遇要追溯到30年之前。當時兩個人所就職的東映動畫公司(現在的東映Animation),也是一家只製作長篇劇場版動畫的公司。他們當時雖然參與製作了數部長篇作品,但也不得不跟隨時代的潮流,將活躍的舞台轉移到電視上。1974年播放的電視系列動畫《阿爾卑斯的少女》(製作·瑞鷹)中,由高畑勳擔任導演,宮崎駿擔任畫面構成,這部動畫是可被稱為電視動畫裡程碑的作品。
 然而,在製作這類電視作品的同時,不知何時他們漸漸發現,電視動畫這一媒體形式終究會受到預算和日程方面的極大制約,要想製作出自己理想中具有現實感和高質量的動畫——即能夠深入挖掘人物心理活動,以豐富的表現力如實反映出人生悲歡的作品——依靠電視動畫是無法達成這個目標的。這一結論便成為《風之谷》後他們創立吉卜力的最初原動力。依靠充足的經費和日程安排,每一部作品都竭盡全力,以創作出注重每個細節、毫不妥協的作品為目標。而且,吉卜力設立了以宮崎駿、高畑勳兩位導演為中心的導演中心主義。吉卜力創立後的20年,可以說是一直保持著這樣的方針,在商業性成功和工作室經營兩者間尋求平衡,依靠兩名導演卓越的能力與各工作人員的共同努力不斷克服種種困難的艱難歷程。
 老實說,當初誰也沒能想像到吉卜力會走到今天。一部作品成功就繼續經營工作室,一旦失敗就結束。這正是工作室創立之時的考量。因此,為了降低風險,吉卜力不僱傭員工,而是採用創作一部作品召集70名工作人員,作品完成便解散團隊的體制。工作地點位於東京吉祥寺某間租賃寫字樓的一層樓。制定此方針的人,正是高畑勳。他曾在《風之谷》中擔任製作人一職,那時他所展現出的業務能力,在吉卜力創立初期也發揮了巨大的作用。接著,《天空之城》也由高畑勳擔任製作人,宮崎駿執導。
 《風之谷》於1984年上映時觀看人數達到91萬5千人,《天空之城》於1986年上映時觀看人數達到77萬5千人,各自都在日本國內掀起熱潮並獲得極高評價。
日本映画界が注目したジブリ
受到日本電影界矚目的吉卜力
 さて、次にスタジオジブリが制作したのが「となりのトトロ」と「火垂るの墓」でした。この2本は実は同時期に作られ、1988年の4月に2本立てで公開されました。「となりのトトロ」は宮崎駿、「火垂るの墓」の監督は高畑勲です。宮崎作品と高畑作品の同時公開というのは、後にも先にもこのとき一回限り、考えてみれば随分と豪華な組み合わせでした。しかし、制作現場は、その分大変な状態に陥りました。なにしろ、長編2本を同時に作らなくてはならないのです。しかも、作品の質は向上させたい。ほとんど無理な要求でしたが、いま、やっておかないとこの両作品を作るチャンスは二度と巡ってこない。そういう判断に立ち、暴挙以外の何物でもないこのプロジェクトを推し進めたのです。
 ここで忘れてならないのが、設立当初からジブリの社長だった故・徳間康快です。彼はそもそも出版社・徳間書店の社長でしたが、本業だけにとどまらず幅広い事業展開をして、徳間グループを築き上げた人物でした。
 徳間社長がスタジオに顔を出すことは滅多にありませんでした。基本的には現場に任せていたからです。しかし、ここぞというときには、顔を出しました。漫画「風の谷のナウシカ」の映画化を決断したのも、ジブリの設立を決断したのも彼です。「となりのトトロ」「火垂るの墓」の2本立てですが、じつは配給が決定するまでには相当な困難がありました。その前の2本に比べると、地味な印象があったからです。このときも徳間社長は自ら配給会社に乗り込んでこの作品を売り込み、話をまとめたのです。これらの徳間社長の働きのひとつでも欠けていたら、現在のジブリはなかったでしょう。
 「となりのトトロ」と「火垂るの墓」は、公開時期が日本で一番お客さんを集めるサマー・シーズンではなかったこともあり、封切の興行成績はいまひとつでした。しかし、作品内容に対しては、各方面からきわめて高い評価を受けました。「となりのトトロ」は、実写を含めたこの年の日本国内の映画賞を総ナメにしました。「火垂るの墓」も文芸映画として大絶賛されました。この2本によって、ジブリは日本映画界にその名を広く知られるようになりました。
 また、「となりのトトロ」は思わぬ副産物も生みました。ぬいぐるみが大ヒットしたのです。いま「思わぬ」といいましたが、実際、このぬいぐるみは映画の公開から2年も経ってから商品化されたものでした。映画製作者サイドがあらかじめ興行との相乗効果をねらって製作したものではなく、あるぬいぐるみメーカーの人が「これこそぬいぐるみにすべきキャラクターだ」と惚れ込み、ジブリへ熱心に働きかけた結果実現したものなのです。
 ともあれ、トトロ商品のお陰で、ジブリは映画の製作費の部分的な補填が可能になり、会社のマークも、これ以降トトロを使うことになりました。マーチャンダイジングについては、現在ジブリの社内の商品企画部で、展開をしています。ただ、あくまで映画が先で、商品はその後から生まれるものだという方針に変わりはありません。商品化のために作品内容を決める、あるいは変更する、ということはこれまで一切行なっていないことは自慢できると思います。
 吉卜力工作室接下來著手創作的是《龍貓》和《螢火蟲之墓》。這兩部電影其實是同期製作,並於1988年4月同時上映。《龍貓》由宮崎駿執導,《螢火蟲之墓》則由高畑勳執導。宮崎駿和高畑勳兩個人的作品同時上映的情況僅此一次,仔細想想還真是相當豪華的組合。然而,製作現場卻因此陷入了大危機。畢竟是要同時完成兩部長篇動畫,而且還要努力提升作品質量。雖然這是看似不可能的條件,但如果不抓住這次機會,再不會有同時製作兩部作品的機會了。基於這樣的判斷,作品進程的推進可謂是完全依靠著一股魯莽的勁頭。
 這裡不得不提的,就是吉卜力創立之初的社長——已故的德間康快先生。他原本是德間書店出版社的社長,但在本職工作外也積極拓展其他領域的業務,一手打造出了德間集團。
 德間社長很少在工作室內露臉,因為製作基本交由現場工作人員負責。然而,在重大關頭,卻少不了德間社長的身影。無論是將漫畫《風之谷》拍攝成電影,還是吉卜力的創立,都是由他做出最終決定的。雖然《龍貓》和《螢火蟲之墓》同期上映,但在決定發行方的時候卻遇到了相當大的困難。因為比起之前的兩部作品,這次的作品給人的印象較為樸素。這時也是由德間社長親自去找發行公司商談,努力推銷作品,才最終敲定下來。如果缺少了德間社長的付出,恐怕就不會有如今的吉卜力了。
 《龍貓》和《螢火蟲之墓》的上映日期並非是在最容易聚集觀眾的夏季,因此初次上映的最終票房成績不算可觀。然而,對於作品內容,各方都給出了極高評價。《龍貓》包攬當年包括真人電影在內的日本國內所有電影獎項,《螢火蟲之墓》作為文藝片也受到交口稱讚。依靠這兩部作品,吉卜力在日本電影界打響了名聲。
 另外,由《龍貓》誕生出了意想不到的周邊產品。那就是大受歡迎的龍貓玩偶。雖然如今說起來是「意想不到」,但其實當時這個玩偶是在電影上映兩年後才被製作成商品的。而且,並非是電影製作方為了增加票房收入而想出這個主意的,反而是某個玩偶生產廠家的人認定「這正是最應該被做成玩偶的角色」,積極與吉卜力接洽後才實現的產品。
 總之,託了龍貓商品的福,吉卜力的動畫製作費用得到了一部分填補,公司的商標此後也使用龍貓作為圖案。關於商品化計劃,現由吉卜力公司的商品企劃部負責展開。只是,公司依舊堅持以電影為優先,商品是其後產物這一方針。至今為止公司從未為了商品化而決定或變更作品內容,這是很值得自豪的。
ジブリ第2期スタート
吉卜力二期的開始
 ジブリ作品で興行的に最初に大成功したのが宮崎監督の1989年度作品「魔女の宅急便」でした。264万人が劇場に足を運んでくれて、この年、邦画No.1ヒットとなりました。配給収入も観客動員もまさにそれまでとはケタ違いです。しかし、大ヒットの陰で、関係者のあいだでは深刻な議論が持ち上がっていました。この先、ジブリをどういう会社にしてゆくのか、という大問題です。具体的には、スタッフの待遇と新人の採用・育成です。
 日本のアニメーション界では、「描いた絵1枚、塗った絵1枚につきいくら」と賃金を設定するいわゆる「出来高制」が通例で、当時のジブリもそれでやっていました。その結果、「魔女の宅急便」の頃のスタッフの収入は、普通の勤め人の約半分という苛酷な状態だったのです。
 宮崎監督はふたつの提案をしました。
   1.スタッフの社員化及び固定給制度の導入。賃金倍増を目指す。
   2.新人定期採用とその育成。
 ジブリの状況とは裏腹に、当時、日本のアニメーション界は悪化する一方でした。そんな中で良質な作品を作るためには、拠点の維持、組織の確立、スタッフの社員化、研修制度の整備等が不可欠である、と判断したわけです。方針の明確な転換でした。いわば、ジブリの第2期のスタートでした。ここでも、徳間社長の支持がありました。
 ところで、プロデューサーの鈴木がジブリの専従になったのは、じつはこの時点のことです。それまでは、徳間書店が発行するアニメーション専門誌「アニメージュ」の編集長をしていました。「アニメージュ」には、1978年の創刊に携わり、1983年に徳間書店が「風の谷のナウシカ」の製作を開始して以来、雑誌の編集とかけもちで、ジブリの映画製作にも関わってきたのです。
 こうして、ジブリは高畑監督の「おもひでぽろぽろ」に取りかかりました。そして、この作品制作中の89年11月からは、先程述べたように、スタッフを社員化・常勤化する一方、動画研修生の制度を発足させ、毎年定期的な新人採用を開始しました。
 1991年に公開された「おもひでぽろぽろ」も興行関係者の不安をよそに、大ヒットしました。「魔女の宅急便」同様、この年の邦画No.1になったのです。とりわけ嬉しかったのが、宮崎の掲げた2大目標が達成できたことです。賃金倍増と新人採用。しかし、ある問題も明確になりました。それは製作費の高騰です。これは作る前からわかっていました。なぜなら、アニメーションの製作費はその約80%が人件費であり、賃金を倍増すれば、それは自動的に製作費も倍近くなることを意味していたからです。
 「ジブリ第2期」の新方針は、必然的に関係者の目を宣伝・興行に向けさせました。製作費の大幅アップは避けがたい。ならばそれに見合うだけの観客動員増を、もっと意識的・計画的に手を打って達成するしかない。それまでも考えていなかったわけではないのですが、この「おもひでぽろぽろ」が、真剣に宣伝に取り組むようになったきっかけの作品になりました。
 当時ジブリの責任者だった原徹氏が「ジブリは3Hだ」といい出したのもこの時です。HIGH COST, HIGH RISK, HIGH RETURN。大きくお金をかけて質の高い作品を作り、大きな不安を抱えながらも、大きく儲けよう。そんな意味だったと思います。あれから随分たちましたが、この言葉は、いまだに通用します。もっともHIGH RETURNについては、仮にその通りになったとしてもすぐに次回作に投入してしまうので、少しも手元に残りません。さて、社員を抱えるということは、給料を毎月支払うということです。ジブリは常に作品を作り続けるしかない状況に自らを追い込んだのです。作り続ける宿命を負ったジブリは「おもひでぽろぽろ」とオーバーラップして「紅の豚」の制作に突入しました。オーバーラップはジブリにとっては初めての経験でした。なにしろ「おもひでぽろぽろ」の追い込みの時期です。ネコの手も借りたいのに、どうやって「紅の豚」に人を割いたらいいのか勝手がわかりません。結局、「紅の豚」の制作に突入したのは宮崎ひとりでした。宮崎は文句をいいました。「制作も何もかも、ぜんぶひとりでやれというのか」。愚痴は聞きましたが、ひとりでやってもらうしかありませんでした。
 吉卜力作品中,在票房上首次獲得巨大成功的是宮崎駿執導的1989年作品《魔女宅急便》。共有264萬人來到影院觀看,並最終成為當年日本第一受歡迎的電影,無論是發行收入還是觀看人數都遠超此前的作品。然而,在這次大受歡迎之後,相關人員之間卻展開了深刻的討論。這次討論事關吉卜力未來將作為怎樣的公司發展這一重大議題。具體來講,就是工作人員的待遇以及對新人的錄用和培養。
 在日本動畫界,通常採用「按繪製畫面數和上色畫面數結算」和設定工資的「多勞多得制」,當時的吉卜力也採用的是這種制度。其所導致的結果是,創作《魔女宅急便》的工作人員的收入才剛到一般人工資一半這一嚴酷現狀。
 就此宮崎駿導演提出兩個意見。
  1、將工作人員的收錄為公司正式員工,並導入固定薪酬制度。爭取達到工資翻倍。
  2、定期錄用並培養新人。
 和吉卜力的狀況相反,當時的日本動畫界正在不斷走下坡路。宮崎駿導演判斷,在這種情況下,要想創作優秀的作品,維持根據地、確立組織、將工作人員收錄為公司正式員工、完善研修制度這幾點缺一不可。由此公司方針發生了明確轉變。這便是吉卜力二期的開始。在這過程中,也得到了來自德間社長的支持。
 另外,身為製作人的鈴木也是在這一時期辭去其他工作,專職于吉卜力的。在此之前,他一直擔任德間書店發行的動畫專門雜誌《Animage》的主編。自1978年參與創刊《Animage》和1983年德間書店開始製作《風之谷》以來,鈴木便兼顧雜誌的編輯與吉卜力的電影製作。
 就這樣,吉卜力著手製作高畑勳導演的《兒時的點點滴滴》。然後,正如前文所說,從作品製作中的1989年11月開始,公司便開始陸續執行各項措施——如將工作人員收錄為公司正式員工,並創設動畫研修生制度、每年定期錄用新人等等。
 1991年上映的《兒時的點點滴滴》,一掃上映前發行相關人士的不安,廣受歡迎。和《魔女宅急便》一樣,成為當年日本第一受歡迎的電影。更讓人欣喜的是,宮崎駿導演提出的兩大目標都得以達成,即工資翻倍和新人錄用。然而,某個問題也漸漸浮出水面。那就是製作經費的大幅提高。這是製作前就瞭然於心的事。究其原因,動畫製作費用的約八成都來自於人工費,如果工資翻倍,那麼自然製作費用也接近翻倍。
 「吉卜力第2期」的新方針,必然性地令相關人士的目光轉向宣傳和票房方面。既然製作經費的大幅上漲難以避免,那麼只能通過有計劃、有意識地採取措施來相應增加觀眾人數。雖然在此之前也不是沒有考慮過這點,但這部《兒時的點點滴滴》,是成為吉卜力決定認真對待宣傳的契機的作品。
 當時身為吉卜力負責人的原徹先生所提出「吉卜力是3H」這一說法也正是在這一時期。所謂3H指的是高投入、高風險、高回報(HIGH COST, HIGH RISK, HIGH RETURN)。投入重金製作高質量作品,懷抱著巨大不安,然後積蓄巨大財富。雖然這已經是很久以前的口號,但至今仍是通用的。話雖如此,關於高回報這一點,即使如其所說獲得高額收入,也會立刻全部投入下一部作品的製作中,手頭幾乎一點不剩。而擁有正式員工便意味著每個月都要支付工資。吉卜力正是這樣將自己逼迫到不得不持續創作作品的境地之中的。背負著持續創作宿命的吉卜力在製作《兒時的點點滴滴》的同時也開始了《紅豬》的製作。而對吉卜力來說製作檔期上發生重疊也是他們首次經歷的。畢竟是《兒時的點點滴滴》製作的緊要關頭,明明已經忙得焦頭爛額,根本不知道他們要怎麼分出人手去製作《紅豬》。結果,著手《紅豬》製作的只有宮崎駿一個人。宮崎駿曾如此抱怨道:「製作內容以及其他的所有工作,都準備讓我一個人幹嗎?」雖然抱怨是抱怨完了,但還是只能由他一個人包攬主要工作。
ジブリ新スタジオの建設
吉卜力新工作室的建設
 そんなストレスを解消しようとしたのか、宮崎が唐突にいいだしました。「新スタジオを建てよう!」と。いちばん大変なときにもっと大変なことを持ち出して、抱えている問題の打開を図るというのが、いつもの宮崎のやり方です。しかし、このとき立てた理屈は人を感心させるものがありました。優秀な人材を確保しようというのに、仮の住まいでは説得力がない。容れ物があってはじめて人は集まるし、また人は育つというのです。スタジオはもうこれ以上は切り詰められないというほど、手狭になっていました。300平米に90人近くのタッフがひしめき合って仕事をしていたのです。しかし、新スタジオを建てるお金は当時のジブリにはありませんでした。
 常識を楯に大反対したのが当時の社長だった原でした。内心無茶だと思いつつ「何とかなるだろう」と考えたのがぼくです。そして、またぞろ大賛成してくれたのが徳間社長でした。妙なはげましのことばも掛けてくれました。「鈴木くん、金は銀行にいくらでもある。人間、重いものを背負って生きてゆくもんだ。」こういう人生観もあるのかと不思議な感動にとらわれたのを覚えています。「考えがちがう」と言い残し、原がジブリを去りました。
 この年の宮崎駿は八面六臂の大活躍、本当に天才でした。「紅の豚」を作りつつ、そのかたわら、自ら設計図をひき、イメージを建設会社と打ち合わせ、完成予想図を描き、素材の見本を取り寄せ、選択し、決定しました。1年後、「紅の豚」と新スタジオはほぼ同時に完成。「紅の豚」の公開直後、ジブリは東京都小金井市に建てた新スタジオに引っ越しました。
 参考までに、現在のスタジオをご紹介すると、第1スタジオが敷地面積は約1100平方メートル、フロアー面積もほぼ同じ。鉄筋コンクリートの地上3階地下1階です。緑や木が多いことが特長で、屋上も宮崎監督の発案により、後から緑地化しました。
 99年春には第1スタジオの向かいに第2スタジオを建設、2000年3月にはその隣に第3スタジオも完成しました。どちらも基本設計はやはり宮崎駿であり、あまり広くはありませんが木造なので、より暖かみのある職場になっています。中でも、第2スタジオには1階にコントロールルームとノンリニア編集室があり、地下は試写室、兼・録音スタジオが入っています。
 或許是為了排解壓力,宮崎駿唐突地提出了如下提議:「來建設新的工作室吧!」在最緊張的時期提出更出格的事情,以圖解決目前面臨的僵局,這正是宮崎駿一直以來的處事方法。然而,在這個時候他所擺出的理由也有值得稱讚之處。為了留住優秀的人才,沒有正式的住所可說不過去。有了相應的場所才能聚集並培養人才。當時的工作室就是處在這樣一種騰不出更多空間的狹窄環境中。在300平方米的空間內,將近90位的工作人員擠在一起工作。可是,當時的吉卜力並沒有足夠的錢來建設新工作室。
 當時的社長原徹以常識為由堅決反對這一提議。我雖然心裡覺得這很亂來卻也認為「拼一把總能辦成的」。而這時候舉雙手贊成的仍然是德間社長。他說出了一番聽上去有些奇怪的激勵人心的話:「鈴木,銀行里要多少錢有多少錢。但人類必須背負著沉重的東西生存下去。」我至今仍記得那種因世上還存在著這種人生觀而感到的不可思議的感動。留下「道不同不相為謀」這句話,原徹離開了吉卜力。
 這一年的宮崎駿可謂是施展三頭六臂之力充分活躍,真的堪稱天才。一邊製作《紅豬》,一邊親自畫設計圖,和建築公司商談工作室的構想圖,然後描繪完成預想圖,索要素材樣品、選擇素材,最後決定使用哪種素材。一年後,《紅豬》和新工作室幾乎同時完成。《紅豬》上映後不久,吉卜力就搬到了位於東京都小金井市的新工作室內。
 作為參考,介紹一下現在的工作室,第1工作室占地面積約1100平方米,建築面積也基本相當。是鋼筋混凝土構造的地上三層加地下一層的建築物。特點是綠化較多,樓頂也因宮崎駿導演的提案,之後全部進行了綠化。
 1999年春季,在第1工作室的對面建成了第2工作室,接著在2000年3月,相鄰的第3工作室也建設完成。基本設計均由宮崎駿負責,雖然不算寬闊,但因為是木造建築,室內較為溫暖。其中,第2工作室里設有控制室和非線性編輯室,地下則設有試映室和錄音工作室。
ジブリの特徴
吉卜力的特徵
 1993年、ジブリはコンピューター制御の大型撮影台を2台導入し、念願の撮影部を発足させました。こうして、作画から美術・仕上・撮影に至るまでの全部門を持つスタジオに成長したわけですが、これは、分業が極度に進行している日本のアニメーション業界とは完全に逆の方向です。これまた、同じ場所で緊密に連携しながら一貫して作業を進めることが作品の質の向上につながる、という理由からです。
 この93年、初めてテレビ向けの作品も制作しました。「海がきこえる」です。監督は当時34歳の望月智充。高畑・宮崎以外の人間が初めて担当したわけです。制作スタッフも2〜30代の若手を中心に編成、「早く安くうまく」を合言葉に制作に入ったのです。この70分のテレビ・スペシャルは、一定の評価は得ましたが、結局予算とスケジュールを大きく超過してしまいました。テレビはジブリの今後の大きな課題です。
 1994年の高畑監督作品「平成狸合戦ぽんぽこ」は、またもこの年の邦画No.1となりました。「おもひでぽろぽろ」以降に採用したジブリ育ちの若いアニメーターたちが作画の中心を担い、大いに力を発揮してくれた作品です。また、「平成狸合戦ぽんぽこ」で、ジブリは初めてCGを導入しました。このときは3カットだけでしたが、今から思えば、これが後のCG室設立につながる流れの始まりでした。
 95年の夏に公開された「耳をすませば」では、宮崎がプロデューサー・脚本・絵コンテを担当し、これまで「火垂るの墓」「魔女の宅急便」「おもひでぽろぽろ」のジブリ作品で作画監督などを担当してきた近藤喜文が初監督に挑戦するという新しい布陣を敷きました。また「デジタル合成」を採用することで、制作現場へのデジタル技術導入を加速させるきっかけにもなりました。思春期の爽やかな出会いを描いた「耳をすませば」もその年の邦画No.1になりました。
 その後、「もののけ姫」では初めてデジタルペイントを採用し、完成後には社内に本格的なCG部を設立。その後、CG部はデジタル作画部と名を変えて、「ゲド戦記」まで映画制作に大いに貢献しました。しかし、その後は、作画方針の変更もあって、CG部は縮小され映像部に吸収されて現在に至ります。
 ちなみに現在スタジオジブリに社員として所属するのは、制作系のスタッフとして作画・デジタルペイント・美術・撮影・映像・音響制作・演出・制作部門があわせて約100人、事務系のスタッフとして業務・出版・商品・海外事業・イベント・管理部門・その他で50人の合計計150人です。こうやって比較するとおわかりのように、その3分の2が映像を作る作業に関わるスタッフです。ジブリ作品は他のスタジオに比べるとコスト高だという話を繰り返ししてきましたが、映画制作に必要なほとんどの作業を社員スタッフでまかなっていることが大きく影響しています。このことが、良質な作品を作り続ける上で大きく貢献している特長なのですが、見方を変えると弱点のひとつだといえるかもしれません。
 1993年,吉卜力導入兩台計算機控制的大型攝影台,創立了心心念念的攝影部。這樣一來,吉卜力終於發展為設有從作畫到美術、上色、攝影全部門的工作室,但這卻和分工愈加細緻的日本動畫業界發展趨勢完全背道而馳。吉卜力的理由依然是——像這樣在同一個場所保持緊密合作和連貫作業,與作品質量的提升息息相關。
 同樣是在1993年,吉卜力製作了首部面向電視的作品——《海潮之聲》。導演是當時34歲的望月智充。這是首次由高畑勳和宮崎駿以外的人擔任導演。製作人員也以20至30歲左右的年輕人為中心構成,將「又快又好又便宜」作為口號進行製作。這部70分鐘的電視特別篇雖然獲得了一定的好評,但是從結果上來看預算和日程都遠遠超出了事先的安排。而電視動畫也成為了吉卜力今後的重要課題。
 1994年高畑勳導演的作品《平成狸合戰》,再度成為當年日本電影的第一名。《兒時的點點滴滴》後錄用並培養的吉卜力新人動畫人們在此次作品中擔任主力,發揮了極大作用。另外,在《平成狸合戰》中,吉卜力初次導入CG技術。雖然僅有3個鏡頭,但現在想來,這或許就是之後設立CG室的起點。
 於1995年夏季上映的《心之谷》中,宮崎駿擔任製作人、編劇,並繪製了分鏡,而此前在《螢火蟲之墓》、《魔女宅急便》、《兒時的點點滴滴》等吉卜力作品中擔任作畫導演的近藤喜文則首次挑戰了導演職務。此外因採用了「數碼合成」的技術,這也成為製作現場加入導入數碼技術的契機。描繪青春期清新邂逅的《心之谷》也成為該年日本電影的第一名。
 這之後,《魔法公主》首度採用數碼繪畫技術,作品完成後公司內部正式設立CG部門。隨後CG部更名為數碼作畫部,為至《地海戰記》為止的電影製作做出了巨大貢獻。不過,其後隨著作畫方針的變動,CG部規模有所縮小並被納入了影像部。
 順帶一提,如今吉卜力工作室內部,公司員工各自從屬於製作相關和事務相關部門。其中製作相關部門又分作畫、數繪、美術、攝影、影像、音響製作、指揮、製作等共計約100人;事務相關部門又分業務、出版、商品、海外事業、活動、管理、其他等共計50人,合計150人。這樣一比較便可以得知,工作人員中的三分之二都與電影製作相關。雖然吉卜力的作品相比其他工作室而言,耗資較高這一點之前被反覆詬病,但這也是受到電影製作的必要工作幾乎全由公司員工負責的情況所影響的。這一特點雖說對不斷製作優秀作品做出了很大貢獻,但根據思考角度不同或許也會成為工作室的弱點之一。
ジブリの宣伝戦略
吉卜力的宣傳手段
 さて、ジブリ映画の宣伝に関する話です。スタジオジブリの特色は、「内容的な評価」と「興行的な成功」を両立させている点にあるといえます。日本の映画界は依然として順調ではありません。その中で、ここ最近のジブリ作品は、ほぼ、興行において成功し続けています。そのポイントは、大きくいって3つあります。
 第1に、当然のことですが、作品の完成度の高さ。画面の緻密さには定評がありますが、内容面では、常に現代性を第一に考えたテーマ設定をしていることも大きな特徴です。「平成狸合戦ぽんぽこ」でいうなら、狸たちを描きながら、それが日本人と重なり、戦後50年を振り返るという映画になっています。「もののけ姫」のタタラ場のように、善悪で単純に割り切れない舞台設定は、現代そのものと言えるでしょう。そういうテーマを、高畑・宮崎という監督の指揮下、高度な技術による高品質な映像で作り出すのです。内容が薄ければ、たとえどんな大宣伝を行っても継続的な成功はありえません。
 第2が、過去に積み上げてきた実績です。ジブリ作品といってもすべてが興行的に大成功してきたわけではありません。具体的には、先程述べましたように「魔女の宅急便」からです。しかし、この大成功には前作品「となりのトトロ」「火垂るの墓」の2作の存在が非常に大きいのです。この2作品は同時公開されましたが、公開時点ではそう大きな興行成績をあげたわけではありませんでした。しかし、内容的には非常に評価が高く、その後のビデオ販売やテレビ放送で、いわゆるアニメファンの枠を大きく越えた一般的な大きなファン層を開拓したのです。この下地があったからこそ、「魔女の宅急便」の成功が生み出されたのです。その後は、回を重ねる毎に、前作の内容的な成功が次の作品の興行的成功を支えるという、幸福な連鎖が生まれています。
 第3が、確たる方針で展開される大規模な宣伝です。日本においては、すでに映画は娯楽の中心ではありません。平均すると日本人ひとりが年間1本しか映画を見ていない計算になります。単にいい映画だというだけでは、お客さんは見に来てくれません。それを突破するには、大宣伝によって映画をイベント化する必要があります。つまり、ジブリ作品はほとんどが夏に公開されていますが「この夏、絶対に見た方がいい話題の中心」という空気を、全国的に作り出すのです。
 宣伝といっても、いわゆる映画宣伝だけではありません。現状では、限られた予算のなかから、宣伝費に大きなお金を投入することがムリなので、いろいろな形でお金のかからないタイアップや、パブリシティに力を入れています。
 こういった宣伝の場合、スタジオジブリとして一番注意していることが、宣伝ターゲットです。アニメーションというと、日本でも子供のものという印象がつきまといます。しかし、日本の映画は若い女性層を獲得しない限り、大ヒットは望めませんし、同時に親子を大動員することも非常に重要です。したがって、ジブリ作品においては、子供から大人までの広い範囲をねらったフル・レンジの宣伝を展開するのです。その場合、特に、大人の鑑賞に耐えうる高度な作品であることを強くアピールすることが大事です。
 そして、公開直前に行われる全国キャンペーン。監督やプロデューサー自らが、文字どおり全国の主要都市を宣伝してまわるのですが、毎日都市から都市へと移動しますし、スケジュールは分刻みなので本当に大変です。しかし、これによって各地域の地元メディアに取り上げてもらえる量がグンとアップするのです。情報がどんどんローカルに限定される傾向が生まれ、東京発の情報が地方に届きにくくなっている現在、地元メディアに対するアプローチはもっとも忘れてはならない宣伝といえます。
 ともかく、ジブリは映画を作ったらそれでおしまいではなく、宣伝にも自ら深く関わって、何とかヒットするように毎回動いてきました。情報化社会、そして娯楽が多様化した現代においてはそうせざるを得ないのです。作品製作を続けようとする限り、このスタイルは続くでしょう。
 那麼,接下來就說說有關吉卜力電影宣傳的事。吉卜力工作室的特色,便是在「內容口碑」和「票房成功」間取得很好的平衡。日本電影界的境況依舊不容樂觀。在這當中,最近的吉卜力作品卻幾乎都維持著票房上的成功。關於這點,可以大致分為三個原因。
 第一點,自然就是作品的高完成度。細緻的畫面已經成為固定的優勢,在內容方面,經常最優先考慮題材現代性後再設定主題也是其重要特徵。以《平成狸合戰》為例,雖然描寫的是狸貓們的故事,但從中也能看到日本人的影子,並藉此回顧了日本戰後五十年的歷程。而像《魔法公主》中的達達拉鐵工廠這樣,無法簡單判定善惡的背景設定,可以說正是現代性最明顯的體現。在高畑勳和宮崎駿這兩位導演的指導下,這樣的題材由高度技術製作成高品質的電影。如果內容單薄,那麼就算在宣傳上投入再大力度也是無法獲得持續性成功的。
 第二點則是從過去積攢而來的實際成績。就算是吉卜力作品也並非所有都收穫了票房上的巨大成功。具體來說,像前文所說的一樣,票房成功是從《魔女宅急便》一作開始的。不過,在此之前的作品——《龍貓》和《螢火蟲之墓》也對該作的成功起到了至關作用。這兩部作品雖然同時上映,但在上映當時並未斬獲搶眼的票房成績。但其內容上獲得了極高的評價,以及其後隨著錄像帶的發售和電視播放,在動畫愛好者之外開拓出了一般觀眾粉絲群。正是有了這樣的基礎,才有了《魔女宅急便》的成功。之後便展開了前一部作品內容上的成功成為下一部作品票房成功的有力支撐這樣的幸運連鎖。
 第三點是通過準確的方針展開大規模的宣傳。在日本國內,電影還未成為娛樂產業的中心產品。平均算下來一個日本人一年只看一部電影。單靠好口碑並不能吸引觀眾前來觀看。要突破這一阻礙,便必須通過大力宣傳使得觀看電影變成一項活動。也就是說,絕大部分吉卜力作品都選擇在夏季上映,正是為了在全國範圍內營造出「這個夏天,不可不看的話題中心」這樣的氛圍。
 說是宣傳,也不僅僅是通常所指的電影宣傳。從公司現狀來看,將有限的預算巨額投入進宣傳費用中還十分困難,因此吉卜力選擇將更多精力投入在不耗費金錢的各種形式的合作與廣告活動中。
 在這樣的情況下,吉卜力工作室最為注重的便是宣傳受眾。即便在日本,說起動畫,也同樣是給人一種小孩子才看的印象。但是,日本的電影如果不能獲得年輕女性觀眾層的支持,就沒法收穫巨大人氣,因此動員全家一起觀看對於票房的成功至關重要。所以吉卜力的作品往往瞄準從小孩到大人的廣泛年齡層,展開全方位宣傳。在這種情況下,更需要特別強調出作品具有可供大人欣賞的足夠深度。
 於是,在作品即將上映前,會開展全國範圍的宣傳活動。導演和製作人親自上陣,在全國的主要城市展開宣傳,每天奔波於各個城市,日程表甚至精細到分,實在是相當辛苦。然而正是因此,各地區的本地媒體報導量也大幅上漲。現如今,信息逐漸被地域範圍鎖定、來自東京的信息越來越難傳達到地方,因此對各個地區當地媒體的宣傳展示便顯得至關重要。
 總而言之,吉卜力並不僅僅停留在製作電影,在宣傳方面也是親力親為,為了獲得人氣每次都會出動。在信息化社會,同時也是娛樂多樣化的當今社會,這種做法也是無奈之舉。只要想繼續創作作品,這樣的方式應該也會一直保持下去。
「もののけ姫」で記録を作ったジブリ
以《魔法公主》創下記錄的吉卜力
 95年、スタジオジブリは、長編第11作、宮崎監督5年ぶりの完全オリジナル作品となる「もののけ姫」の制作に入りました。実は「もののけ姫」は企画そのものが冒険でした。いまどき流行らない時代劇、製作費が従来の倍の20億円、そしてライバルは「ロストワールド・ジュラシックパーク」。普通に考えたら回収は不能です。しかし、時代劇は宮崎監督長年の念願でした。彼の年齢やスタッフ編成などを考えると、作るなら今しかない、という状況でした。「もののけ姫」の企画には関係各社の誰しもが不安を覚えましたが、最後にGOサインを出したのはやはり徳間社長でした。足かけ3年がかりで製作したこの作品は97年夏に公開されるや関係者の予想を遥かに超える大ヒットとなり、あの「E.T.」を抜いて、それまで日本で公開された邦画・洋画すべての映画の記録を塗り替えました。
 「もののけ姫」は単なる映画の枠を超えて社会現象になり、多くのメディアで様々な人が、この作品について語り合いました。もちろん世間のいたるところでも話題になり、ジブリの名前を広く認知させることになりました。
 そんな中、悲しい出来事もありました。98年1月、「耳をすませば」の近藤喜文監督が亡くなったのです。47歳でした。数多くの高畑・宮崎作品を支え続けた、間違いなく世界でも屈指の天才アニメーターでした。日を追うに従って、彼の不在が大きく感じられます。
 次にジブリが取り組んだのは「ホーホケキョ となりの山田くん」でした。原作はいしいひさいちさんの4コママンガで、脚本・監督は高畑勲、公開は99年夏。「山田くん」は全編フルデジタルで制作された最初のジブリ作品です。ジブリとしてはデジタル化が絶対に良いと思っていたわけではありませんが、セルなど素材の供給に不安が出てきたため、「もののけ姫」制作終了後、仕上・撮影部門の全面的デジタル化に踏み切りました。作画や背景画は従来通り手描きですが、それ以降の工程がすべてコンピューターで行われるようになったのです。
 残念ながら「山田くん」は大ヒットというわけにはいきませんでした。しかし作品自体は大変高い評価を得ることが出来ました。1作1作を確実にヒットさせなければならないジブリのあり方は変わっていません。が、常に挑戦し、冒険し続けてきたのもジブリです。超大ヒット作「もののけ姫」の後にこういう作品を作り世に送り出したのも、ある意味で大変ジブリらしいのではないでしょうか。
 1995年,吉卜力工作室開始製作長篇動畫第11部作品,也是宮崎駿導演時隔五年的完全原創作品——《魔法公主》。實際上,《魔法公主》的企劃本身便極具風險。現在已不再流行的古裝劇題材、製作經費為20億日元,是此前製作作品費用的翻倍,再加上《侏羅紀公園》這一強勁競爭對手,按一般觀點來看,想回收成本幾乎是不可能的。可是,創作一部古裝劇是宮崎駿導演長年的心愿。考慮到他的年齡和製作人員構成,要想做也只有抓住這次機會。雖然相關公司的眾人都對《魔法公主》的企劃懷揣不安,但最後給出「可以製作」信號的果然還是德間社長。足足花費了三年時間製作而成的這部作品,在1997年夏季得以公開,收穫了遠超相關人士預想的無與倫比的人氣,甚至超越《E.T.》,刷新了此前在日本上映過的包括日本電影和外國電影在內所有電影的票房紀錄。
 《魔法公主》已然超越電影本身而成為一種社會現象,在許多媒體上,各種各樣的人就這部作品展開了熱烈討論。當然,它也在整個社會成為話題,使吉卜力的名號更加響徹日本。
 在這期間,也有令人悲傷的消息。1998年1月,曾執導《心之谷》的近藤喜文導演離開人世,享年47歲。他支持了高畑勳和宮崎駿的多部作品創作,是毫無疑問的世界範圍內屈指可數的天才動畫人。伴隨時光流逝,也更令人惋惜他的逝去。
 吉卜力下一部著手製作的作品是《隔壁的山田君》。原作是石井壽一先生的四格漫畫,編劇、導演是高畑勳,於1999年夏季上映。《隔壁的山田君》是首部全篇採用數碼技術創作的吉卜力作品。雖然對吉卜力來說數碼化並非毫無缺陷,但出於對賽璐珞等素材供應方面的不安,在《魔法公主》的製作結束後,上色、攝影部門毅然推行全面數碼化。作畫和背景畫雖依舊手工繪製,但之後的工作便全部交由電腦來完成。
 非常遺憾的是,《隔壁的山田君》並未取得很大人氣。然而作品本身依舊收穫了很高的評價。必須讓每一部作品都大受歡迎這一吉卜力方針仍未改變,但同時,時刻進行挑戰、在冒險之途不斷前行也是吉卜力的精神。在超人氣作品《魔法公主》後便為世人帶來這樣的作品,某種程度上來說也很有吉卜力的特色。
ジブリ作品の海外進出について
吉卜力作品的海外發展
 ジブリ作品の海外上映は、10年前までは香港・台湾などのアジア地域が主でした。海外の興行に興味がなかったので、こちらから積極的に売り込むことはしてこなかったのが主な理由です。しかし90年代中頃から様子が変わってきました。まず「となりのトトロ」がアメリカで劇場公開され、続いてフォックスビデオから発売された同作品のビデオソフトは、60万本の売上を記録しました。これは、日本映画のアメリカでの展開としては画期的なことでした。また「平成狸合戦ぽんぽこ」がアカデミー賞の外国語映画部門の日本選出代表に選ばれるという出来事もありました。
 そして96年、ディズニーとの間で、新作「もののけ姫」とそれまでのジブリ作品を世界配給するという提携の話が持ち上がりました。我々はかねてから、きちんとしたお話ならば受けていきたいと考えていました。国籍・人種を問わず、沢山の人に見てもらい、喜んでもらえるのは作り手としては何よりも嬉しいことです。ディズニーなら、作品を大事にしてくれる。そんな考えのもと、我々はディズニーと提携することを決めました。
 この提携により、まず「魔女の宅急便」がビデオで98年9月に北米で発売され、大変好評を博しました。そして英語吹替版の「もののけ姫」が全米で99年10月に劇場で封切られ、多くのメディアで絶賛されました。残念ながら興行成績は振るいませんでしたが、宮崎監督とジブリの名は、はっきりとアメリカでも認識されるようになりました。フランスでは2000年の1月より公開され好成績を収め、以後ヨーロッパの他の国や南米などでも順次上映されています。
 ただ、ディズニーとの提携によって、今後ジブリは、あらかじめ世界市場を考慮に入れて、いわば多国籍企業的なマーケティング戦略で作品を作るのかといったら、それは違います。これまで通り、まず日本を対象に一所懸命作品を作り、海外はその後で考えるという方針が今後も続くでしょう。それは「もののけ姫」後の最初の作品に「山田くん」を作ったことにも如実に表れています。
 吉卜力作品的海外上映在10年前為止還以香港、台灣等亞洲地區為主。主要原因是公司對海外票房不甚感興趣,因此公司方面並沒有積極對外銷售。但到了90年代中期,情況也隨之一變。先是《龍貓》在美國影院上映,緊接著由福克斯發行的這一作品的錄像帶,創下了60萬張的銷售記錄。這在日本電影的海外發展史上堪稱劃時代事件。此外《平成狸合戰》在那年的日本電影當中被選為日本代表衝擊奧斯卡金像獎最佳外語片獎。
 接著在1996年,和迪士尼合作將新作品《魔法公主》和此前的吉卜力作品在世界範圍內發行這一合作議題也被擺上了台面。我們在很早以前就考慮過想要接受此類商談。不問國籍與人種,如果能使更多的人欣賞到我們的作品並從中感受到喜悅,對於製作者來說這是最令人開心的事了。而且迪士尼一定會好好對待這些作品。考慮到這些因素,我們決定與迪士尼合作。
 通過這次合作,首先是《魔女宅急便》於1998年9月在北美以錄像帶形式發售並大受好評。緊接著是英文配音版的《魔法公主》於1999年10月在全美影院初次上映,也獲得媒體一致好評。遺憾的是票房上未能取得佳績,但宮崎駿導演和吉卜力卻由此在美國被眾人所熟知。而2000年1月起在法國的上映則收穫不錯的票房,之後在歐洲其他國家及南美也陸續上映。
 只是,我們並不能說由於和迪士尼間的合作,便認為吉卜力在今後會優先考慮世界市場,也就是以國際化企業的市場戰略來創作作品。像之前一樣,吉卜力會繼續保持首先以日本為對象全力製作作品,其後才考慮海外發展的方針。這一點從《魔法公主》後最先製作的是《隔壁的山田君》一事中也能得到如實反映。
「千と千尋の神隠し」の世界的な成功
《神隱少女》世界範圍的成功
 2001年7月、日本中に旋風を巻き起こした「もののけ姫」に続く宮崎監督の次回作として「千と千尋の神隠し」が公開されました。この作品は事前の予想をはるかに超える大ヒットとなり、「もののけ姫」の記録をすべて塗り替え、動員2350万人、興行収入304億円の日本における興行の新記録を作ったのでした。海外からの評価も高く、第52回ベルリン国際映画祭では日本人としては39年ぶり、アニメーションとしては史上初の金熊賞を受賞、翌年の第75回アカデミー賞では長編アニメーション部門のオスカーを見事に受賞したのです。
 また、翌年発売した同作品のビデオはDVDとVHS合わせて、550万本出荷という驚異的なヒット作となりました。10万本でヒット作といわれる市場で、この数字はいかに並外れたものかが理解してもらえるでしょうか。さらに半年後にテレビでOAされた際も、46.9%(ビデオリサーチ調べ)という驚異的な高視聴率を記録したのでした。これは1977年の調査以来、映画の視聴率では断トツの一位となります。
 この作品のヒットにより、スタジオの世間からの捉え方に大きな変化が生じました。「世界を席巻する日本のコンテンツビジネスの旗手=スタジオジブリと宮崎監督」という扱われ方です。当時、日本経済がすっかり自信を失っていたこともあるのでしょうが、世間からは世の中唯一の明るい話題、日本の希望の星として捉えられ、連日、経済誌や新聞の産業面の記者からの取材申し込みが相次ぎ、自治体や日本国政府までもが、ジブリをコンテンツビジネスの成功例として扱い始めたことに、正直なところ戸惑いを感じざるを得ませんでした。
 ただ確かに、このころ「チーム鈴木」という言葉が生まれたように、日本テレビやディズニー、三菱商事、電通、博報堂といった出資会社と、ローソン、読売新聞、第一興商といった協賛会社との連携が非常にうまく行って、興行に大きく寄与したことは事実です。そしてそれが、ビジネスモデルの成功例として捉えられても仕方ないことかもしれません。ただ、スタジオとしては、あくまでも、子供向けに高品質なアニメーション映画を提供し続けていくという志に一片の迷いもありませんが。
 ところで、2004年3月公開の、プロダクションIG制作、押井守監督作品「イノセンス」に製作協力として参加し、主に宣伝の分野で協力しました。これは見方を変えると、これまでに確立した「チーム鈴木」という宣伝協力体制をフルに活用する新たな試みでした。結果として大ヒットには至らなかったものの、押井守監督作品としては前作の10倍の興行成績をあげ、また、女性客の集客に成功した点でも十分に評価できる結果といえるのではないでしょうか。新たな問題として、シネコンを中心とした興行網に対するアプローチをどうすべきかという問題が急浮上してきたのですが、それはまた別のお話です。
 2001年7月,繼日本掀起熱潮的《魔法公主》之後,宮崎駿執導的下一部作品《神隱少女》上映。這部作品獲得了超過事前預期的絕大成功,刷新了《魔法公主》創下的全部記錄,創下觀眾人數2350萬人,票房收入304億日元的日本票房新紀錄。該作品在海外也廣受好評,在第52屆柏林國際電影節上獲得日本人暌違39年的金熊獎,更是動畫作品史上首次獲頒該獎項。第二年榮獲第75屆奧斯卡金像獎最佳動畫長片獎。
 此外,在第二年發售的作品錄像DVD與VHS合計生產數達到550萬張這一驚人數目。在銷售10萬張就算得上是人氣作品的市場景況下,不難理解這個數字是非常不同尋常的。接著,在半年後,該作品於電視上播放時,更是創下46.9%(據Video Research Ltd.調查)的高收視率記錄。這是自1977年的調查以來,電影收視率中遙遙領先他作的當之無愧的第一名。
 因為這部作品取得的巨大成功,社會評價工作室的態度也產生了極大變化。「席捲世界的日本文化產業旗手=吉卜力工作室和宮崎駿導演」是當時的主流觀點。當時,雖然日本在經濟上完全喪失了自信,但吉卜力和宮崎駿導演被視為唯一的樂觀話題、日本的希望之星,連日接到經濟雜誌和產業新聞記者的採訪申請,就連自治體和日本國政府也將吉卜力視作文化產業的成功範例來對待,老實說對於這種態度我們曾經也很困惑。
 只是,正如此時誕生的「鈴木團隊」一詞一樣,和日本電視、迪士尼、三菱商事、電通、博報堂等出資公司,以及羅森、讀賣新聞、第一興商等贊助公司之間的合作進行得非常順利,給票房也帶來了很大保障。把這當做是商業模式成功的範本也是理所當然的事。不過,工作室自身從頭到尾所想的只有繼續創作面向兒童的高質量動畫電影,這一點不會因任何事而動搖。
 於2004年3月上映的由Production.I.G製作、押井守執導的作品《攻殼機動隊2 INNOCENCE》中,吉卜力作為製作協力參與製作,主要在宣傳方面給予支持。換個角度來看,這正是將成立至今的「鈴木團隊」這一宣傳合作體制的作用充分發揮出來的新嘗試。雖然就結果而言影片並沒有獲得極大人氣,但作為押井守導演的作品,其票房成績還是達到了前一部作品的十倍,更值得一提的是,影片成功吸引了不少女性觀眾的注意。而此時又有一個新的問題浮現出來,那就是該如何對待以大型電影院為中心的票房關係網,當然這又是後話了。
「三鷹の森ジブリ美術館」の誕生
「三鷹之森 吉卜力美術館」的誕生
 「千と千尋の神隠し」と並行して、宮崎駿はもうひとつの作品を完成させました。「三鷹の森ジブリ美術館」。美術館といっても単に飾ってある絵を鑑賞するだけではなく、空間その物を楽しみ体験することで心が豊かになる、極めてユニークな建物です。設計はもちろん宮崎本人で、2001年10月に開館しました。「紅の豚」のときと同様、宮崎駿は「千尋」と「美術館」の2本の作品を同時に作り上げるという離れ業を演じたのです。
 残念ながら、このふたつの作品両方にGOサインを出した徳間康快社長は、2000年9月、完成を見ずして帰らぬ人となりました。享年78歳。しかし、そのチャレンジ精神は、ジブリの在り方の基本として、これからも我々とともに生き続けるでしょう。
 ジブリ美術館は、開館から7年目に入った今も、完全予約制という特殊な運営方法を維持しながら、年間70万人のお客様に来館していただき、順調な運営を続けています。常設展の他に、これまでに企画展として、「千と千尋の神隠し」展や「天空の城ラピュタと空想科学の機械達」展などのジブリ作品を取り上げた企画展示や、「ノルシュテイン展」「ピクサー展」「アードマン展」などの世界中の良質なアニメーション作家やスタジオを紹介しながら、アニメーション文化の発信基地としての成果を確実にあげています。その証拠といえるかもしれませんが、2005年3月、宮崎吾朗館長は「三鷹の森ジブリ美術館での「ピクサー展」など一連の企画」を評価されて芸術選奨文科大臣賞新人賞を受賞しました。
 また忘れてならないのが、ジブリ美術館内の映像展示室「土星座」で上映されている短編アニメーションたちです。これまでにスタジオジブリが、「くじらとり」「コロの大さんぽ」「めいとこねこバス」「星をかった日」「水グモもんもん」「やどさがし」の6本のオリジナルアニメーションを制作し、現在も定期的に上映を続けています。美術館だけでしか観られないため、興行的な回収を考えないですむという利点を生かして、今後も意欲的な作品を定期的に提供していく予定です。
 在製作《神隱少女》的同時,宮崎駿導演又完成了一個新的作品——「三鷹之森 吉卜力美術館」。雖然名為美術館,但它不僅僅是觀賞裝飾著繪畫的地方,而是可以沉浸在空間本身之中,讓心靈獲得愉悅和得以充分享受的極其特別的建築物。設計方面自然由宮崎駿本人親自負責,在2001年10月順利開館。和《紅豬》的時候一樣,宮崎駿再度完成同時製作《神隱少女》和「美術館」兩個作品這一創舉。
 遺憾的是,給這兩個作品釋放「可以製作」信號的的德間康快社長卻在2000年9月,沒來得及見證最終成功便撒手人寰,享年78歲。但是,他所具有的挑戰精神將作為吉卜力存在的基石,永遠存在於我們的心中。
 吉卜力美術館距今開館已有7年,雖依舊維持著完全預約制這一特殊的運營方式,但每年仍有70萬遊客前來參觀,經營得十分順利。除常規展出以外,還有「神隱少女展」、「天空之城與幻想科學的機械展」等以吉卜力作品為主題的企劃展,以及「諾里斯金展」、「皮克斯展」、「阿德曼展」等介紹外國優秀動畫作家和工作室的展覽。通過這些展覽,吉卜力美術館作為動畫文化的傳播基地取得了相當傑出的成果。而取得成果的佐證便是2005年3月,宮崎吾朗館長以「三鷹吉卜力美術館的皮克斯展等企劃」的成就獲藝術選獎文科大臣獎新人獎。
 此外不得不提的是,在吉卜力美術館內設置的電影展覽室「土星座」中所上映的數部短篇動畫。至今為止吉卜力工作室已創作有《The Whale Hunt (捕鯨記)》、《Koro's Big Day Out (可羅的大散步)》、《Mei and the Baby Cat Bus (小梅與小貓巴士)》、《The Day I Bought a Star (買下星星的日子)》、《Mon Mon the Water Spider (水蜘蛛紋紋)》、《House Hunting (尋找棲所)》等六部原創動畫,如今也在定期上映中。因為這些影片只有在美術館內才能觀看,所以便有不必考慮票房回報這樣的優勢,工作室今後也會積極地創作作品定期供館內遊客觀看。
スタジオジブリのさまざまな挑戦
吉卜力工作室迎來的各種挑戰
 「千と千尋の神隠し」の翌年、初の高畑・宮崎監督以外の監督作品として、森田宏幸監督作品「猫の恩返し」と百瀬義行監督作品「ギブリーズepisode2」の二本立ての興行を行い、65億円の興収を上げ、2002年度の邦画興行ナンバーワンの成績を収めました。高畑・宮崎ではない若い世代が制作した作品を公開する試みは、大変な好成績を収めました。
 また、2002年にはチェコの実写映画「ダークブルー」の配給宣伝に協力し、翌年にはフランスで大ヒットしたミッシェル・オスロ監督作品「キリクと魔女」の日本語吹替版を高畑監督が手がけ、ジブリとして配給宣伝に協力するなど、ジブリ作品に限らず、また実写、アニメーション作品に限らず、世界の良質な作品を紹介する試みも行なっています。
 スタジオジブリとは別の活動するために「スタジオカジノ」というブランドを立ち上げ、これまでに庵野秀明監督の実写映画「式日」(2000年)の製作・配給を行なったり、本広克行監督作品「サトラレ」(2001年)に参加し海外配給を手がけたりしました。
 その後2004年には、百瀬義行監督とcapsuleという音楽ユニットをプロデュースしている中田ヤスタカ氏とのコラボレーションで「ポータブル空港」(2004年)を「スタジオカジノ」ブランドで発表、その後も、「スペースステーションNo.9」「空飛ぶ都市計画」(2005年)というミュージッククリップを相次いで制作しました。この3部作はレトロフューチャーSFをテーマに、スタジオジブリが手がける作品として新たな方向性を提示することに成功したのではないでしょうか。
 このほか、2001年に制作したアサヒ飲料のCMを皮切りに、ローソンのキャンペーンCM、りそな銀行、ハウス食品「おうちで食べよう」シリーズ、読売新聞など、コマーシャルフィルムの制作が本格化してきたことが、新しい動きとしてあげられると思います。これまでにも、日本テレビの開局40周年記念のコマーシャルフィルムを作成したことはありましたが、定期的にこれだけの作品を作り始めたのはつい最近のことです。これらの制作で得られる対価は、今やスタジオ運営のための重要な収入となっていることは、否定できないでしょう。ただ、むやみにCMを受注しているわけではないのはいうまでもなく、あくまでも本業に影響を与えない範囲で、十分な報酬があり、クオリティにおいても妥協せずにすむ場合にのみ限られるのですが。
 フィルム制作とは別の事業にも本格的にも着手することになりました。イベントの企画・制作・運営です。これまでにも、各種のイベントは手がけてきましたが、映画公開時の宣伝の一環としての原画展やデパート展示がその中心でした。今回は事情が違っており、現代美術館館長に日本テレビの氏家会長が就任したことを皮切りに、「スタジオジブリ立体造型物展」「球体関節人形展」「漫画映画の全貌展」「大サーカス展」などを企画し参加してきたわけです。さらに、海外にも展示を貸し出すなど積極的な展開が続いていますが、これは、単に商業主義に走っているわけではなく、周囲からスタジオジブリに対する要望が引っ切り無しに寄せられており、それをすべて断り切れないというジブリの事情によります。つまり、それだけ、世間からの声が大きくなってしまったことの、ひとつの証だと思っています。
 その後、2007年に企画制作協力した「男鹿和雄展」は29万人もの観客を集める大ヒットを記録し、同美術館の一日当たりの動員数の記録を作りました。ジブリや宮崎・高畑の名前ではなく、男鹿和雄の名を冠した初めての試みでしたが、この記録的な大成功により、ジブリのイベントも新たな展開が期待できるのではないかと思います。
 《神隱少女》上映後的第二年,首次由高畑勳、宮崎駿以外的導演執導的兩部作品——森田宏幸執導作品《貓的報恩》和百瀨義行執導作品《the GHIBLIES episode 2 (吉卜力傳2)》同時上映,成為2002年日本電影的票房冠軍。作為由高畑勳、宮崎駿以外的新生代導演創作作品的試水上映,獲得了不錯的成績。
 接著,在2002年吉卜力參與捷克的真人電影《鐵翼藍天》的發行宣傳,第二年高畑勳導演則負責了在法國大受好評的動畫《嘰里咕與女巫》(米歇爾·歐斯洛執導作品)的日文配音版,吉卜力在其中協助進行發行宣傳。不僅僅局限於工作室自己的作品,也不局限於是動畫還是真人作品,吉卜力不斷嘗試著將世界其他國家的優秀作品介紹給廣大觀眾。
 為了獨立于吉卜力工作室個別展開活動,吉卜力成立了「卡吉諾工作室」品牌,至今為止該品牌參與過庵野秀明執導的真人電影《式日》(2000年)的製作與發行,以及本廣克行執導作品《被偷聽的人》(2001年)的海外發行。
 隨後於2004年,百瀨義行導演和音樂組合capsule的製作人中田康孝先生合作創作《Portable Airport (可攜式機場)》(2004年),並以「卡吉諾工作室」的名義公開,後續又相繼製作了《Space station No.9》及《Sora-tobu Toshi Kikaku(飛天都市計劃)》(2005年)等PV動畫。這三部曲以復古未來科幻為主題,作為吉卜力工作室經手的作品,成功地為工作室提意新的發展方向的可能性。
 除了上述所說的內容之外,以2001年製作的朝日飲料廣告為開端,工作室正式涉足商業廣告的製作。如羅森的活動廣告、理索納銀行、好侍食品的「在家裡吃吧」系列廣告、讀賣新聞等等,均可謂是工作室新的動向。此前工作室雖然也製作過日本電視台開辦40周年的紀念形象廣告,但定期開始製作這類作品還是最近才有的動作。通過製作這些廣告而獲得的報酬,對工作室來說是維持運營所必需的重要收入來源,這點是無法否定的。只不過,工作室當然也不會不加考慮地隨意接受這類工作委託,最多是在不影響本職工作的範圍內,有足夠報酬且不會對質量輕易妥協的情況下才會接受。
 除了電影製作以外,工作室也正式開始涉及其他的事業,如活動的企劃、製作與運營。至今為止,雖然工作室也有各類活動的策劃經驗,但都是以電影上映的宣傳的某一環節為主,如原畫展和商場展示等。這次卻和以往的情況不同,以日本電視台的氏家會長就任現代美術館館長為開端,吉卜力接連參與了如「吉卜力工作室立體造型物展」、「球體關節人偶展」、「漫畫電影全貌展」、「大馬戲團展」等展會的企劃。此外,吉卜力還積極展開面向海外的出借展示業務,但這並非純粹出於商業利益的驅使,而是由於當時吉卜力接到的來自周圍的熱切邀請絡繹不絕,實在無法全部回絕。這也從另一個方面印證了社會對吉卜力的期待愈趨高漲。
 之後在2007年,吉卜力協助製作企劃的「男鹿和雄展」招攬了多達29萬名來客,創下該美術館一日來客數的新紀錄。這次新嘗試並沒有依靠吉卜力或者宮崎駿、高畑勳兩位導演的名氣,而是僅憑藉了「男鹿和雄」的名頭,便在記錄上取得了極大成功。這使得吉卜力在活動策劃方面的新展開也更令人期待。
「ハウルの動く城」における試み
《霍爾的移動城堡》中的嘗試
 2004年11月、宮崎駿監督最新作「ハウルの動く城」が公開されました。公開2日間の動員では日本映画歴代最高のオープニングを飾る大ヒットとなり、公開後6ヶ月で、興行収入においても動員においても「もののけ姫」を抜き、「千と千尋の神隠し」に続く、日本映画の興行史上第2位のヒット作品となりました。結果、日本映画の上位3作品を宮崎監督のジブリ作品で占めることとなり、ジブリとしては嬉しく思うというよりは、戸惑いの気持ちでいっぱいというのが正直な気持ちです。
 「ハウルの動く城」の宣伝戦略はこれまでとは少し違っていました。つまり「宣伝をしない宣伝」です。最近の洋映画の宣伝が事前にほとんどの情報をCMや紹介記事で見せてしまい消費していることで、観客は事前に観てしまった様な気分になり、映画館に足を運ばなくなったのではないかと考えたからです。
 この考え方に沿って、本格的な宣伝は公開前一ヶ月に集中し、地方キャンペーンもやめ、テレビスポットの投入も公開後を中心に据えました。また監督が作品を語ることもやめ、ストーリーもほとんど公開せず、予告編のテレビOAも見送ったのです。この宣伝方針は、ジブリにとって大きなチャレンジでした。いうなれば、これまでの宣伝戦略の否定ともいえるからです。結果として「ハウルの動く城」が大ヒットした現在、この挑戦はうまく行ったのではないかと判断しています。
 さらに「ハウルの動く城」は初の試みとして、日本国内での公開より前に、第61回ベネチア国際映画祭のコンペ部門に出品されました。結果は「オゼッラ賞」を受賞し、公開前の事前宣伝に大きく寄与しました。さらには、翌年の第62回の同映画祭で、宮崎監督の長年にわたるアニメーション映画制作に対して、「金獅子栄誉賞」が贈呈されました。
 2004年11月,宮崎駿執導的最新作品《霍爾的移動城堡》上映。上映僅兩天時間,其觀眾數便成為日本電影史上的最強開場,上映六個月後,無論是票房收入還是觀眾人數都超越《魔法公主》,排在《神隱少女》之後成為日本電影史上的票房亞軍。就這樣日本電影的前三名作品均由宮崎駿執導的吉卜力作品所包攬,但對吉卜力來說,比起高興他們更多感到的是困惑。
 《霍爾的移動城堡》採取的宣傳手段和以往相比有些許不同,一言以蔽之就是「不去宣傳的宣傳」。理由在於,最近外國電影的宣傳大多在上映前就通過廣告或者新聞報導等放出大量信息,給觀眾一種已經提前看過的感覺,這樣觀眾就不會想再前往電影院觀看。
 出於這種考慮,吉卜力在上映前一個月集中進行正式宣傳,不再進行地區活動,在電視上的廣告宣傳也以上映後為主。此外導演也不再談論作品內容,劇情也基本不透露,就連預告動畫的電視播放都完全擱置。這樣的宣傳方針對吉卜力來說是很大的挑戰。說起來這幾乎算是將吉卜力此前的宣傳手段全盤否定了。但就結果來看,《霍爾的移動城堡》收穫了巨大成功,或許可以證明這次挑戰取得了不錯的成果。
 作為初次嘗試,《霍爾的移動城堡》更是在日本國內上映前,就參展了第61屆威尼斯國際電影節的競賽單元並斬獲「金奧薩拉獎」,這對上映前的宣傳起到極大的正面效應。接著在第二年的第62屆威尼斯國際電影節上,宮崎駿導演因長年以來對動畫電影製作事業投入的心血而榮獲榮譽金獅獎。
宮崎吾朗監督のデビュー
宮崎吾朗的導演出道作
 2005年4月、スタジオジブリは徳間書店と分離独立し、株式会社となリました。これまで、徳間書店の常務取締役であり、スタジオジブリの経営責任者であった、鈴木プロデューサーが代表取締役社長に就任しました。そんな新体制になったジブリにとって、新作の発表はいち早く待ち望まれているところでした。そんなジブリが次回作に選んだのは、宮崎吾朗監督の「ゲド戦記」なのです。
 「ゲド戦記」はジブリにとって、大いなるチャレンジでした。宮崎・高畑の名を冠しない単独上映の大作として、世間に真価を問うことにしたからです。また、それまで、アニメーション制作の経験がなかった宮崎吾朗監督にいきなり監督を任せるという決断も大いに世間を驚かせました。ご存知のように宮崎監督の長男である宮崎吾朗は、大学卒業後は造園の仕事に携わっていました。その後、ジブリ美術館の建設と運営を成功させ、愛知万博の「サツキとメイの家」の建設を指揮するなど、ジブリの仕事とはいえ映画製作とは関係のないところで活躍を続けていました。その宮崎吾朗が監督に抜擢されたのは、プロジェクトを統率する能力に秀でていたこと、絵コンテだけでなくレイアウトまで切れるだけの作画能力があること、物事の本質を見極める能力に秀でていたことを、プロデューサーの鈴木が見抜いていたことが挙げられます。
 結果、「ゲド戦記」は作画イン後、僅か10ヶ月という短期で完成させることに成功、制作コストアップの問題に悩むスタジオにとって、解決作に対する一筋の光明となったのも事実です。
 「ゲド戦記」は興行収入76.5億円、観客動員610万人のヒットを記録、2006年の邦画興行第一位となり、新人監督の興行の新記録を作りました。
 2005年4月,吉卜力工作室從德間書店獨立出來,成為了股份有限公司。此前擔任德間書店常務董事與吉卜力工作室的經營負責人的鈴木製作人就任公司社長。面對建立了新體制的吉卜力,大眾對新作品的發表更加翹首以待。吉卜力所選擇的下一部作品,便是宮崎吾朗執導的《地海戰記》。
 《地海戰記》對吉卜力來說是很大的挑戰。作為沒有出現宮崎駿、高畑勳兩位導演大名的獨立上映大作,其真正的價值更將受到世人的考驗。另外,讓至今為止完全沒有動畫製作經驗的宮崎吾朗出任導演一職也讓人們感到十分驚訝。正如各位所知,宮崎吾朗是宮崎駿導演的長子,在大學畢業後就一直從事園藝相關工作。其後,他成功建設並運營吉卜力美術館並指揮建設了愛知萬博會的「小月和小梅之家」,在與電影製作無關的吉卜力工作舞台上持續活躍著。宮崎吾朗之所以被提拔至導演,乃是出於他對項目的出色領導力,從分鏡到版面設計皆十分精通的優秀作畫能力,以及能看清事物本質的能力。鈴木製作人正是看中了他的這些能力而選擇了他。
 最後,《地海戰記》進入作畫環節後,僅用了短短十個月的時間便完成了製作。這對當時苦惱於製作經費上漲的工作室來說,也帶來了一絲解決問題的希望。
ジフリ美術館ライブラリー事業のスタート
吉卜力美術館典藏事業的開始
 2007年1月、記者会見が開かれジブリ美術館ライブラリー事業のスタートが、ジブリ美術館の中島館長、シネマ・アンジェリカの畠中氏、ウォルト ディズニー スタジオ ホームエンターテイメントの塚越代表の出席のもと、高らかに宣言されました。これからジブリ作品だけではなく、高畑、宮崎監督が影響を受けた作品や、推薦する作品を過去作や世界中の作品から選んで、定期的に劇場公開し、DVDでライブラリーを作っていこうという主旨のプロジェクトです。前年の夏に公開したポール・グリモーの「王と鳥」の興行的成功を受けてのプロジェクトでした。
 第一回作品としてロシアの油絵アニメーション作家ペトロフの新作「春のめざめ」、その後、ミッシェル・オスロ監督の新作「アズールとアスマール」、宮崎監督運命の作品「雪の女王」と公開され、その後、高畑・宮崎の愛すべき作品「パンダコパンダ」、ロシアでもっとも愛されている人形アニメ「チェブラーシカ」、劇場では初興行となる「動物農場」、そして「ルパン三世」1st.シリーズを公開し、着実にファン層を広げながら成果を挙げています。今夏には「ウォレスとグルミット」の最新作の公開準備中です。
 このプロジェクトなどは、ジブリ美術館を中心に世界中に広がったアニメーションの巨匠たちとのリレーションなしでは成立できないものです。彼らの作品は一部を除いて商業主義とは一線を画した作品が多く、現在の日本では劇場公開もかなわない作品が多いことは、まことに残念な次第です。そこで、ジブリの名前を利用してもらってでも、素晴らしいアニメーション作品を少しでも世に広めることが出来ればという思い先行で行なっているものです。
 ジブリ美術館ライブラリー事業は、これから、新作映画の上映とともに、ジブリが特に力を入れて続けて行く事業になるのではと思います。
 2007年1月,吉卜力美術館的中島館長、CINEMA ANGELICA的畠中先生及華特迪士尼工作室家庭娛樂公司的塚越代表共同出席記者見面會,會上正式宣布了吉卜力美術館典藏事業的開始。這個項目意味著從今以後除吉卜力作品外,美術館還將精心挑選受到高畑勳、宮崎駿導演風格影響的作品以及想要推薦給觀眾的往年作品和外國作品,定期在影院內上映,並以DVD的形式收藏於館內。項目的執行實際上受到了前年夏季上映的保羅·古里莫執導的《國王與小鳥》票房成功的鼓舞。
 第一次放映的作品選擇了俄羅斯油畫動畫家佩特洛夫的新作《初戀》,之後,米歇爾·歐斯洛的新作品《阿祖爾與阿斯瑪爾》和改變了宮崎駿導演命運的作品《雪之女王》接連上映,隨後是高畑勳、宮崎駿導演的心愛之作《熊貓家族》、在俄羅斯也廣受好評的人偶動畫《切布拉什卡》、初次在影院上映的《動物農場》,還有《魯邦三世》的第一彈系列等等,切實地拓寬了粉絲層。預計於今年夏天上映的《超級無敵掌門狗》最新作也正在緊密準備中。
 如果脫離了以吉卜力美術館為中心的世界範圍內動畫大師們建立的密切聯繫,這個項目也就無法成立。他們的作品除一部分之外都和商業主義劃清界限,大多無法在現在的日本影院上映,這著實令人遺憾。因此,如果能用吉卜力的名號,讓這些精彩的動畫作品得以進入更多觀眾的視野就好了——懷揣著這樣的心愿,吉卜力開展了這一項目。
 吉卜力美術館的典藏事業,從今以後將與新作電影的上映一起成為吉卜力持續投入心血的事業。
宮崎監督4年ぶりの新作「崖の上のポニョ」
宮崎駿導演時隔4年的新作品《崖上的波妞》
 「ハウルの動く城」以来の宮崎監督4年ぶりの新作である「崖の上のポニョ」は、コンピューターによる表現を一切廃し、徹底的に手描きによる表現にこだわった意欲作となりました。世界的に3Dアニメが主流となりつつある現代において、日本のお家芸とも言える、高畑や宮崎がその発展に貢献してきた2Dアニメーションに徹底的にこだわった本作は、今後もスタジオジブリは2Dを中心に作品作りを続けることを世間に高らかに宣言したわけです。そのポニョは高い評価と多くの人々の支持を得られ、観客動員1287万人、興行収入155億円の大ヒット作となりました。また、第65回ベネチア映画祭のコンペ部門にもノミネートされ、審査員や観客から熱い支持と評価を得られたことも、忘れられない出来事です。
 さらに、2010年夏には、「PONYO」として全米公開されました。上映館数はこれまで最大の927スクリーン。第一週目の興行成績は358万ドルで、ランキングの9位に入る成功を収めました。この成功は、全米での配給を手がけたキャスリーン・ケネディとフランク・マーシャルという大物プロデューサーの手腕によるところが大きいと思います。
 《霍爾的移動城堡》之後,宮崎駿導演時隔四年的新作品《崖上的波妞》廢除了一切電腦表現形式,徹底採用手繪,是飽含心血的誠意之作。如今,世界上3D動畫已逐漸成為主流,但本作品嚴守被稱為日本動畫的祖傳絕技,也就是高畑勳、宮崎駿兩位導演做出過巨大貢獻的2D動畫製作,正是在向社會高調宣言,從今以後吉卜力工作室也將以2D為中心持續創作作品。另外令人難忘的是,作品還入選了第65屆威尼斯電影節的競賽單元,同樣獲得了評委和觀眾的熱切支持與好評。
 接著在2010年夏季,《崖上的波妞》以「PONYO」這一英文名於全美上映。上映數是至今為止最多的,共被搬上了927塊銀幕。第一周的票房成績為358萬美元,斬獲票房排名第九位的佳績。這次的成功,很大程度也要歸功於凱斯琳·甘迺迪和法蘭克·馬歇爾兩位知名製作人的出色才幹。
若手監督の起用
發掘新人導演
 「崖の上のポニョ」の制作が終わると、宮崎監督は新たな5ヶ年計画を発表しました。2010年、2011年に若手監督で新作を発表し、その2年後に自分の監督作品を公開するという、ジブリでは始めての長期プランの策定でした。この方針に従って、まずは2009年の12月、次回作「借りぐらしのアリエッティ」を、企画・脚本 宮崎駿で制作し、2010夏に公開することを発表しました。大量消費時代にあって「借りぐらし」という設定が今の時代にぴったりだという宮崎監督の発案によるものでした。
 さて、では誰が監督になるのか?衆目の注目のもと、若手監督起用の第一弾として、スタジオジブリでトップアニメーターとして走り続けてきた米林宏昌が起用されたのです。この決定に当初困惑ぎみだった米林監督でしたが、持ち前の芯の強さで覚悟を決め、ベテランスタッフも一丸となって新人監督を盛り立て制作を続けました。結果として、「借りぐらしのアリエッティ」は、新人監督らしいみずみずしい感性と細やかなアニメートに裏付けられた作品として、世間からも大好評をもって受け入れられ、この年の邦画としてトップの興行成績を収めることができました。
 さらに「借りぐらしのアリエッティ」は、「The Secret World of Arrietty」として、2012年2月17日には全米でも1522スクリーンで公開。ジブリ作品最大規模での公開となりました。
 続いて2011年夏、「コクリコ坂から」が公開されました。若手監督起用作品の第二弾として、「ゲド戦記」に続く2作目監督作品として、宮崎吾朗監督を中心に制作されたのです。
 この年は誰しもが忘れがたい国難に直面した年でした。東日本大震災という未曾有の大震災が3月11日に発生したのです。震災直後、制作現場は一時、停止状態に追い込まれましたが、「我々がなすべきことは映画を制作すること。現場を放棄してはならない」という信念の元、監督らを中心に果敢にチャレンジ、多くの関係者の皆さんの協力や応援を得て、無事に公開することができました。この凄まじい自然災害の真っ只中にあって、世に送るにふさわしい作品であって欲しい、またこの作品が人々に元気を与えるものであって欲しいと願う中での公開でした。
 震災後の暗いムードもあって、のきなみ映画興行が苦戦する中で、この作品も少なからず影響を受けたのですが、それでも結果としては国内興行は44.6億円、動員355万人となり、2011年の邦画興行ナンバーワンとなったのです。
 年が明け2012年。更なる高見を目指して今度は、高畑勲監督・宮崎駿監督が新作に挑み続けています。ジブリの特徴として、いつも何か新しいことにチャレンジするという精神があります。確実にヒットを続けるなら、あるいは守りに入るならヒット作の続編やパート2をコツコツと送り出していくことの方が確実でしょう。ただ、ジブリはそういう選択は行ないません。無謀なことなのかもしれませんが、新たなる地平を求めて常に前進することこそ、スタジオジブリが持つ最大の特徴なのではないでしょうか。
 《崖上的波妞》製作完成後,宮崎駿導演公布了新的五年計劃。2010年、2011年將公開新人導演的作品,隨之兩年後將公開自己的導演作品。就這樣,吉卜力工作室首度制定了長期計劃。遵循這一方針,先是在2009年12月,發表了下一部作品《借物少女艾莉緹》將由宮崎駿負責企劃與編劇,並定於2010年夏季公開這一消息。這部作品的靈感來自於宮崎駿導演的提議,他認為在處於大量消費時代的當今,「借東西」這個設定正符合當下社會的現狀。
 那麼,誰會是這部作品的導演呢?在萬眾矚目之下,作為發掘新人導演的第一彈,身為吉卜力工作室頂級動畫師的米林宏昌被選為導演。雖然米林導演一度對這一決定極為困惑,但還是靠著與生俱來的頑強精神做好覺悟,和經驗老道的其他製作人員團結一心,互相協助進行製作。從結果來看,《借物少女艾莉緹》具有新人導演特有的細膩感性和細緻作畫,在社會上大受好評,成功收穫該年度的日本電影票房冠軍。
 《借物少女艾莉緹》隨後以「The Secret World of Arrietty」的英文名於2012年2月17日在全美1522塊銀幕上映。這是吉卜力作品史上最大規模的公映。
 接著在2011年夏季,《來自紅花坂》上映。作為啟用新人導演的第二彈,以宮崎吾朗導演為中心製作該作品,這也是他繼《地海戰記》之後導演的第二部作品。
 這一年也是日本人直面令人難以忘卻的國難的年份。東日本大地震這一史上罕見的大震災在3月11日發生。地震發生後不久,製作現場暫時處於癱瘓狀態,但是抱著「我們該做的就是做好電影,絕不能放棄製作現場」這一信念,以導演們為中心果斷展開挑戰,並獲得了許多相關人士的支持和援助,最終得以順利上映。在這慘烈的自然災害中,想要給人們送去撫慰人心的作品,也想要通過這一作品給人們帶去活力。這部作品正是滿含著這樣的願望於影院上映的。
 2012年,懷著對更宏偉的目標的渴望,高畑勳、宮崎駿兩位導演繼續創作新作品。這種常常向新事物發起挑戰的精神,同時也是吉卜力的特徵。如果想切實保持人氣,或者說保持作品的高知名度的話,只要推出之前成功作品的續集或者是第二部分就可以了。但是,吉卜力並沒有選擇這麼做。這或許談不上是明智之舉,然而向著新的高度不斷前行,才是吉卜力工作室最大的特徵。
宮崎駿監督・高畑勲監督の作品公開
宮崎駿、高畑勳執導作品的上映
 2013年7月20日、宮崎駿監督作品「風立ちぬ」、同年11月23日、高畑勲監督作品「かぐや姫の物語」が公開されました。高畑監督の新作は14年ぶりであり、まさに待望の新作でした。当初は同日公開を目指した2作品でしたが、「かぐや姫の物語」は制作が遅れたため4ヶ月遅れとなりました。前者は興行収入120.2億円、観客動員1000万人を達成、2013年の日本での興行成績第一位となり、第86回アカデミー賞の長編アニメーション部門にもノミネートされましたが、世界中で大ヒットした「アナと雪の女王」と争い、惜しくも2度目のオスカー獲得はなりませんでした。後者は、その芸術性や表現が高く評価され、興行収入25億円、観客動員200万人の結果となりました。
 「風たちぬ」の公開も続く9月6日、宮崎駿監督が突然、吉祥寺第一ホテルで記者会見を開き、長編映画制作からの引退を発表しました。国内外あわせて600名以上の記者が集まり、生中継のテレビを含めて70台のテレビカメラに囲まれる事態となり、世界中から引退を惜しむ声が上がりました。その後の宮崎監督は、自身が館主を務めているジブリ美術館の企画展示「クルミわり人形とネズミの王さま展」の制作や、漫画の執筆などで活動を再開しており、2014年11月には、米国アカデミー協会から"アカデミー名誉賞"の表彰を受けるべく渡米することになっています。
 2013年7月20日,宮崎駿執導的《風起》上映。同年11月23日,高畑勳執導的《輝耀姬物語》上映。這是高畑勳導演暌違14年的新作品,可謂是讓所有人翹首以盼。雖然當初是打算同一天上映這兩部作品,然而《輝耀姬物語》因為製作進度的原因推遲了四個月才與觀眾見面。前者不但是2013年日本票房第一的電影,也被提名為第86屆奧斯卡最佳動畫長片,與在全世界範圍內大火的《冰雪奇緣》競爭,可惜最終與奧斯卡獎失之交臂。後者的藝術性和表現手法得到了廣泛好評,更被提名為第87屆奧斯卡最佳動畫長片。
 在《風起》上映後的9月6日,宮崎駿導演突然在吉祥寺第一酒店召開了記者見面會,宣布將不再從事長篇動畫的製作工作。此次見面會召集了國內外600名以上的記者,現場具有包括直播電視攝像機在內的70台攝像機,全世界都對他的隱退感到惋惜。在那之後,宮崎駿導演投身於自己擔任館主的吉卜力美術館的美術展「胡桃夾子玩偶與碩鼠主題展」的製作,以及漫畫創作等活動。2014年11月獲美國奧斯卡協會頒發「奧斯卡終身成就獎」並飛赴美國。
「思い出のマーニー」の公開と制作部門の活動休止
《回憶中的瑪妮》的上映與製作團隊的停止活動
 2014年7月、米林宏昌監督の監督第2作「思い出のマーニー」が完成し、公開されました。これはジブリ作品としては初の"宮崎駿"の名前がクレジットされていない作品で、「かぐや姫の物語」を見事に世に送り出した西村義明プロデューサーと、前作「借りぐらしのアリエッティ」で大ヒットを飛ばした米林監督がタッグを組んだ意欲作でした。また、これまで実写映画の美術を手がけて、数々のヒット作に参加してきた種田陽平氏を美術監督に迎えるなど、新世代ジブリの到来を予感させる作品であったと思います。
 2014年8月、テレビのドキュメンタリー番組を通して、鈴木プロデューサーの口から「ジブリの制作部門の休止」が発表されました。スタジオは、再び変革の時を迎えつつあるといえるでしよう。しかし、スタジオジブリの航海はまだまだ続きます。
 2014年7月,米林宏昌導演執導的第二部作品《回憶中的瑪妮》製作完成並上映。這是第一部製作人員中沒有「宮崎駿」名字的吉卜力作品。也是成功製作《輝耀姬物語》的西村義明製作人和通過前一部作品《借物少女艾莉緹》一炮而紅的米林導演聯手推出的嘔心瀝血之作。而且,隨著有豐富真人電影美術負責經驗並參加過不少大熱作品製作的美術指導種田陽平的加入,這部作品可以說預示著新一代吉卜力的到來。
 2014年8月,通過電視的紀錄片節目,鈴木製作人宣布了了「吉卜力製作團隊停止活動」這一消息,就這樣,2014年末,工作室的製作部門被關閉,所屬的製作人員也各自向新的人生目標揚帆起航。
スタジオジブリの作品がフランスからやってきた
從法國而來的吉卜力工作室作品
 制作部門が解散しても、スタジオジブリの活動は続きます。三鷹の森ジブリ美術館には毎日沢山のお客様に来館していただき、新しい企画展示も毎年5月にお披露目されました。ジブリ作品のブルーレイのリリースやCMの制作も続きました。国内外で、たくさんのジブリ関連の展覧会も開催されました。そんな日々の中で、新たなジブリ作品公開への挑戦も始まっていました。
 8分間で1人の女性の人生を描ききったマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督の短編映画「父と娘」("Father and Daughter"/旧題「岸辺のふたり」(2006年))。この映画に大変感心した鈴木プロデューサーは、それまで短編映画しか作っていなかったマイケル監督の長編映画を見たいと思うようになりました。そこで、スタジオジブリはマイケル監督に長編制作を打診、マイケル監督は、スタジオジブリが手伝ってくれること、高畑監督から助言を貰えることを条件に快諾したのでした。マイケル監督は、日本に滞在しながらシナリオ・絵コンテ制作を行ない、アニメーション制作の実作業はフランスのスタジオを中心に行なって、8年もの歳月をかけて長編映画「レッドタートル ある島の物語」を完成させたのでした。初めて外国人監督と協力し作った23作品目のスタジオジブリ長編映画は、2016年9月に日本全国で公開され話題となり、第69回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門特別賞、第44回アニー賞インディペンデント長編アニメーション映画賞を受賞した他、第89回アカデミー賞長編アニメーションにノミネートされるなど、国内外で高い評価を得ることができました。
 雖然製作團隊解散,吉卜力工作室還是在運營著。三鷹之森吉卜力美術館每天都會迎來大量的觀光客,每年五月份也有新企劃的展示。吉卜力作品的藍光DVD以及廣告的製作也一直在進行。國內外也不停地有大量吉卜力相關的展覽。在這樣的每一天裡,開啟了以新的吉卜力作品上映為目標的挑戰。
 導演麥可·杜德維特的短篇作品《父親與女兒》(原標題《岸邊的兩人》2006年)用8分鐘的時間描繪了一名女性的人生。這部作品帶給鈴木製作人莫大的感動。而鈴木製作人一直以來都熱切期盼著能夠看到麥可導演的長篇電影,就這樣,吉卜力工作室向麥可導演試探是否有製作長篇電影的意願,而麥可導演以高畑勳的指導和吉卜力工作室的協助為條件欣然承諾。麥可導演在留日期間內著手進行編劇和分鏡的工作,而動畫製作實則交由法國的工作室來完成,經過八年的漫長歲月,長篇電影《The Red Turtle(紅海龜)》終於得以完成。首部由外國人執導並協助製作的吉卜力工作室第23部長篇電影於2016年9月在日本一經公開便成為熱門話題,接連榮獲第69屆坎城電影節「一種關注」單元特別獎、第44屆安妮獎最佳獨立動畫長片獎,並被提名為第89屆奧斯卡金像獎最佳動畫長片,在國內外都受到廣泛好評。
宮崎監督の引退撤回の決断
宮崎駿導演撤回隱退聲明
 宮崎監督の長編映画引退宣言に伴う制作部門の解散で、しばらく長編映画制作を休止していたスタジオジブリですが、あらためて映画制作を再開することを決断しました。つまり宮崎駿監督の引退撤回です。その理由は「作るに値する題材を見出したから」。
 2017年5月19日、正式にジブリの公式HPで新作映画に向けて新人募集を行ない、スタジオジブリの制作部門の再構築が始まりました。引退会見からこの間、宮崎監督は、三鷹の森ジブリ美術館で上映する短編映画「毛虫のボロ」の制作に専念し、若いスタッフらと初の挑戦となるCGによる表現に意欲的に向かい合ってきました。そうした過程の中で、若い力を借りて、再び長編映画制作に挑む意欲が抑えられなくなったのです。世界中からの応募者の中から11人の新人が選ばれ、10月からスタジオに机を置いて新作に向けての研修が始まっています。
 こうしてスタジオジブリという小舟は、再び嵐の海に向かって帆を揚げたのでした。
 伴隨著宮崎導演停止參與長篇動畫製作的聲明,製作團隊也全部解散,吉卜力工作室原本已經決定暫時停止製作長篇電影,但最終又決定開始製作新的電影。也就是說,宮崎駿導演撤回了他的隱退聲明,撤回的理由是「發現了有製作價值的題材」。
 2017年5月19日,工作室正式在吉卜力官網上為新電影的製作募集人手,吉卜力工作室的製作團隊也開始重組。從隱退記者會到現在,宮崎駿導演一直都在專心製作於三鷹之森吉卜力美術館上映的短篇電影《Boro the Caterpillar (毛蟲波羅)》,同時也與年輕製作人員共同向此前從未使用過的CG技術發起挑戰。在這過程當中,藉助年輕一輩的力量,宮崎駿導演終於按捺不住心中重新製作長篇動畫的熱情。從全世界的應徵者中挑選了11位新人,從10月開始了針對新作品的研究學習。
 就這樣,叫作「吉卜力工作室」的小船,又一次向暴風雨肆虐的大海揚起了風帆。
2017.10. -
2017年10月

參考資料