文档:吉卜力的历史与现状

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吉卜力的历史与现状 文档 
ジブリの歴史と現状
吉卜力的历史与现状
(1998年)
 以下の文章は、スタジオジブリのプロデューサー・鈴木敏夫が1995年に、アヌシー国際アニメーション・フェスティバルで行った講演を基に、今回新たに内容を増補し再構成したものです。
 ジブリのこれまでの歩みを8つの章に分けて説明してあります。全部お読みいただくとジブリのことはほとんど把握できるはずです。どうぞじっくりご覧ください。
 
ジブリのスタート
吉卜力的开始
 スタジオジブリは、「風の谷のナウシカ」の内容的興行的成功を機に、 「天空の城ラピュタ」製作時の1985年に、「風の谷のナウシカ」を製作 した出版社・徳間書店が中心となり設立したアニメーション・スタジオ です。以後、宮崎駿・高畑勲両監督の劇場用アニメーション映画を中心 に製作してきました。ちなみに「ジブリ」とはサハラ砂漠に吹く熱風の ことです。第2次大戦中、イタリアの偵察戦闘機が名前に使用していま したが、飛行機マニアの宮崎がこのことを知っており、スタジオ名とし たわけです。「日本のアニメーション界に旋風を巻き起こそう」という 意図があったと記憶しています。
 ジブリのように原則的に劇場用の長編アニメーション、しかもオリジ ナル作品以外は製作しないスタジオというのは、日本のアニメ界では、 というより世界的にも極めて特異な存在だと思います。なぜなら、興行 の保証が得られない劇場用作品は、リスクが大きすぎるだけに、継続し て収入が得られるテレビ・アニメーション・シリーズを活動の中心に置 くのが常識だからです。日本でも、多くのアニメーション・スタジオが テレビ・アニメに基盤を置きつつ、たまに劇場用作品を作るというのが 一般的です。そして、日本で作られる劇場用の映画も、じつは、評判の よいテレビ・アニメを映画化するというケースがほとんどです。
 もっとも、ジブリも最初から現在の体制で運営されていたわけでは ありません。以下、まずジブリの歴史を、その前段階も含めて述べよ うと思います。
 高畑と宮崎、現在ジブリの中心となっているふたりが出会ったのは そもそも今から30年以上も前のことです。当時ふたりが所属していた 東映動画は、まだ劇場用長編アニメーションだけを作っていました。 何作か長編作品の製作に参加した彼らですが、時代の流れとともに 活躍の舞台をテレビへと移さざるを得ませんでした。74年に放送さ れたテレビ・シリーズ「アルプスの少女ハイジ」は、高畑が監督し、 宮崎が絵を担当した作品ですが、これは、テレビ・アニメのひとつの 到達点ともいうべき作品です。
 しかし、そういった作品群を産み出す中で、いつしか彼らは、 自分達が目指しているリアルでハイクオリティなアニメーション作り ――人間の心理描写に深く入り込み、豊かな表現力で人生の喜びや悲 しみをありのままに描き出す――を実現していくのには、やはり テレビという、予算的にもスケジュール的にも制約の大きい媒体 では不可能であるという結論に到達していくのです。それが 「風の谷のナウシカ」以後のジブリ設立への原動力になったわけです。 予算とスケジュールをかけて一作一作に常に全精力を注ぎ込み、 すみずみまで目の行き届いた妥協のない内容を目指していく。 しかも、それを宮崎・高畑というふたりの監督を擁し、監督中心 主義で作る。ジブリの10年は、この姿勢を保持しながら、 それでいて商業的な成功とスタジオの経営を両立させていくという 困難な課題を、両監督の卓越した能力とスタッフの努力によって、 かろうじてこなしてきた歴史であるといえるかもしれません。
 正直いいますと、ジブリがここまで続くとは誰も考えていませんでした。 一本成功したら次をやる。失敗したらそれで終わり。設立当初は、 こういう考え方だったからです。ですからリスク軽減のために社員 の雇用はせず、作品ごとに70人ほどのスタッフを集め、完成すると 解散するというスタイルをとりました。場所は東京・吉祥寺の貸し ビルのワンフロアー。この方針を打ち出したのは、実は高畑勲でした 。彼は「風の谷のナウシカ」をプロデュースしましたが、そのとき 見せた実務能力が、ジブリのスタート時にも大いに発揮されたわけ です。そして、「天空の城ラピュタ」も高畑勲プロデュース・ 宮崎駿監督で制作されました。
「風の谷のナウシカ」は1984年の公開で91万5千人、 「天空の城ラピュタ」は1986年で77万5千人の観客をそ れぞれ日本国内で動員し、高い評価を得ました。
 在1984年《风之谷》上映之后,不论是票房表现或影片的水准方面均获得了相当大的成功,于是,在德间书店的支持下,1985年,“吉卜力工作室”成立了。同年,吉卜力开始制作《天空之城》,自此以后,吉卜力工作室成为一个专为宫崎骏和高畑勋制作动画的工作室。“吉卜力”(GHIBLI)这个名字事实上本意是指撒哈拉沙漠上吹的热风。在二次世界大战的时候,意大利空军飞行员将他们的侦察机也命名为“吉卜力”。宫崎骏是个飞行器狂,当然也知道这件事,于是决定用“吉卜力”作为他们工作室的名字。而在这个名字的背后,还有一层含意,也就是希望这个工作室能在日本动画界掀起一阵旋风!!   
 吉卜力工作室是一个相当特殊的团体,不论在日本国内或是国际间都是一样。因为吉卜力工作室原则上只制作由原著改编,剧场放映用的动画。由于制作剧场版的动画必须冒相当大的票房风险,所以一般的工作室通常都以制作TV版动画为主,虽然偶尔会制作一些剧场动画,但是大多数也是由著名的TV版动画改编而成的。(附带说一句,日本平均每周制作超过40部的TV版动画!)接下来谈到吉卜力的历史。   
 30年前,名叫宫崎骏和高畑勋的两个年轻人相遇了。那时他们一起在一个叫“东映动画”的工作室里工作。这个工作室原本也是只制作电影动画的,但是在时代潮流的影响之下,他们无可选择地还是做了一部TV的动画《阿尔卑斯山的少女》,于1974年播出,由宫崎骏制作,高畑勋导演。这部动画在全世界都广受欢迎。   
 然而,在制作这部动画的同时,宫崎骏和高畑勋逐渐领悟到,通过电视版这种制作时间和成本都大受限制的动画形式,是没有办法达到表现他们心中真正追求的境界的。他们所追求的,是纯粹而高品质的动画,是能真正深入人心,刻画人们生命中喜悦与悲伤的动画。这一股信念,正是他们在《风之谷》成功之后,毅然成立“吉卜力工作室”的根本动机。他们的理想,是将全部精力都灌注在他们的每一部作品之中,绝不牺牲品质向有限的时间和预算妥协。每一部作品都将由宫崎骏和高畑勋制作导演,一切的指示都由导演来下达,导演的决定拥有最高的优先权。吉卜力工作室这十年以来,一直都坚持着这样的理念,而这可说是宫崎骏和高畑勋这两位出类拔萃的导演和全工作室人员努力的成果。   
 吉卜力工作室的成员们,从来都没想过这个工作室竟然能一直存活到现在。“我们制作一部电影,如果它成功了,就再做下一部。如果失败了,那这个工作室就得结束生命。”吉卜力成员们当初就是抱着这样的心态出发的。为了使风险减到最低,他们没雇用半个全职的工作人员。在制作一部影片的时候,他们大约会召募七十个左右的人员组成小组,当电影完工之后,小组即自动解散。他们工作的地方,就只有位于东京市郊一间房子中的一层楼而已,而且还是租来的。一切的管理决策都由高畑勋一手包办,在他的良好经营之下,吉卜力工作室才得已顺利地完成《天空之城》的制作,并在1986年上映,成功地吸引了七十八万名观众到电影院观赏,同时得到了极高的评价。  
日本映画界が注目したジブリ
备受日本电影界关注的吉卜力
 さて、次にスタジオジブリが制作したのが「となりのトトロ」と 「火垂るの墓」でした。この2本は実は同時期に作られ、1988年の 4月に2本立てで公開されました。「となりのトトロ」は宮崎駿、 「火垂るの墓」の監督は高畑勲です。宮崎作品と高畑作品の同時公開 というのは、後にも先にもこのとき一回限り、考えてみれば随分と豪華 な組み合わせでした。しかし、制作現場は、その分大変な状態に陥りま した。なにしろ、長編2本を同時に作らなくてはならないのです。しか も、作品の質は向上させたい。ほとんど無理な要求でしたが、いま、 やっておかないとこの両作品を作るチャンスは二度と巡ってこない。 そういう判断に立ち、暴挙以外の何物でもないこのプロジェクトを 推し進めたのです。
 いい作品を作る、これがジブリの目的です。会社の維持・発展は 二の次です。ここが普通の会社とは異なります。「となりのトトロ」 と「火垂るの墓」の2本立てプロジェクトも、この方針があってはじ めて実現した企画でした。
 ここで忘れてならないのが、ジブリの社長・徳間康快です。彼は 徳間書店の社長でもありますが、その本業である出版だけにとどま らず、幅広い事業展開をしております。溝口健二の作品で有名な大映 という映画会社も、いまは彼が経営しています。
 社長がスタジオに顔を出すことは滅多にありません。基本的には 現場に任せているからです。しかし、ここぞというときには、顔を 出します。漫画「風の谷のナウシカ」の映画化を決断したのも、 ジブリの設立を決断したのも彼です。「となりのトトロ」「火垂るの墓」 の2本立てですが、じつは配給が決定するまでには相当な困難がありま した。その前の2本に比べると、地味な印象があったからです。このと きも徳間社長は自ら配給会社に乗り込んでこの作品を売り込み、話をま とめたのです。これらの徳間社長の働きのひとつでも欠けていたら、 現在のジブリはなかったでしょう。
「となりのトトロ」と「火垂るの墓」は、公開時期が日本で一番お 客さんを集めるサマー・シーズンではなかったこともあり、封切の 興行成績はいまひとつでした。しかし、作品内容に対しては、各方面 からきわめて高い評価を受けました。「となりのトトロ」は、実写を 含めたこの年の日本国内の映画賞を総ナメにしました。「火垂るの墓」 も文芸映画として大絶賛されました。この2本によって、ジブリは日 本映画界にその名を広く知られるようになりました。
「となりのトトロ」は思わぬ副産物も生みました。ぬいぐるみが大 ヒットしたのです。いま「思わぬ」といいましたが、実際、このぬい ぐるみは映画の公開から2年も経ってから商品化されたものでした。 映画製作者サイドがあらかじめ興行との相乗効果をねらって製作した ものではなく、あるぬいぐるみメーカーの人が「これこそぬいぐるみ にすべきキャラクターだ」と惚れ込み、ジブリへ熱心に働きかけた結果 実現したものなのです。
 ともあれ、トトロ商品のお陰で、ジブリは映画の製作費の継続的な 補填が可能になり、会社のマークも、これ以降トトロを使うことにな りました。マーチャンダイジングについては、現在ジブリの社内に キャラクター商品部を設け、本格的な展開を図ろうとしています。 ただ、あくまで映画が先で、商品はその後から生まれるものだ、 という方針に変わりはありません。商品化のために作品内容を決める、 あるいは変更する、ということはいまも一切行っていません。
 吉卜力工作室接下来的两部电影是《龙猫》和《萤火虫之墓》,负责导演的分别是宫崎骏和高畑勋。当时两部电影的制作时同时进行的,整个制作过程简直是一片混乱。而令人惊叹的是,即使是同时制作两部电影,品质却丝毫没有降低的迹象,这几乎是不可能的!!但吉卜力做到了,他们的政策方针是将制作良好的影片摆在第一位,公司的经营和成长则是其次。这就是吉卜力和其他的工作室不同的地方。如果没有这样的政策,想制作这两部电影根本是不可能的。  
 谈到吉卜力工作室的历史时,有一个人是不得不提到的,他就是德间康快,吉卜力的总裁。同时,他也是德间书店的总裁,除了负责发行业务之外,他也参与了一些公司发展及其他的事务。另外,他也拥有一个名叫Daiei的影片工作室,此工作室一向以制作大导演沟囗健二的影片闻名。   
 德间康快很少来吉卜力的工作室,因为他原则上希望吉卜力工作室能自由地发展,自由地做决定。但是在有需要的时候,他总是站在第一线帮忙。当初将宫崎骏的漫画风之谷搬上银幕,正是出自他的决定,同时,吉卜力工作室也是由他一手创建的。 
 要将《龙猫》和《萤火虫之墓》这两部电影发行上映,吉卜力工作室遇到了不小的困难。因为这两部电影和他们的之前的几部电影相较,显得相当的沈闷。当时,德间康快自己不惜风尘仆仆地游走于发行片商之间,为这两部片拼命地争取发行上映的机会。最后在他的努力之下,终于说服了片商。如果缺少了他的任何一点努力奉献,吉卜力工作室现在早已不在了。
 《龙猫》和《萤火虫之墓》的票房表现并不如预期,这可能是由于错过了上映时间的关系,也就是说,这两部片并没能在暑假这个电影旺季上映。不过,它们超卓的品质却获得了各界一致的赞赏。那一年,《龙猫》几乎包办了日本所有的电影大奖,甚至还包括了最佳摄影奖。而《萤火虫之墓》则被盛赞为“真正的艺术”。藉着这两部片,吉卜力工作室在日本电影界打响了极大的名气。另外,《龙猫》也为吉卜力带来了意想不到的收获——龙猫布娃娃竟然大受欢迎。为什么说是“意想不到”呢?因为龙猫布偶的上市距离影片上映差不多已有两年之久了,而且他们创造龙猫当初也并不是为了想促进票房。事实上,是有一家布偶制造商看上了龙猫,觉得龙猫这个“人物”不做成布偶实在太可惜了,于是极力央求吉卜力工作室让他制作布偶。   
 总而言之,感谢龙猫产品的销售成果,吉卜力工作室才能够慢慢地补回制作费造成的大笔赤字。龙猫后来还被吉卜力当成工作室的标志。目前吉卜力正在计画成立一个专门负责销售电影角色周边商品的部门。当然,吉卜力的方针仍是以制作电影为第一优先,周边商品的收益只是一个额外的成果而已。吉卜力从来没有(将来也不会)为了考虑周边商品的价值,而改变影片的任何一个部分。
ジブリ第2期スタート
吉卜力第2期开始
 さて、話を戻します。
 ジブリ作品で興行的に最初に大成功したのが宮崎監督の1989年度作品 「魔女の宅急便」でした。264万人が劇場に足を運んでくれて、この年、 邦画NO.1ヒットとなりました。配給収入も観客動員もまさにそれまでと はケタ違いです。しかし、大ヒットの陰で、関係者のあいだでは深刻な 議論が持ち上がっていました。この先、ジブリをどういう会社にしてゆ くのか、という大問題です。具体的には、スタッフの待遇と新人の採用 ・育成です。
 日本のアニメーション界では、「描いた絵1枚、塗った絵1枚につきいくら」 と賃金を設定するいわゆる「出来高制」が通例で、当時のジブリもそれでやって いました。その結果、「魔女の宅急便」の頃のスタッフの収入は、普通の勤め人の 約半分という苛酷な状態だったのです。
 宮崎監督はふたつの提案をしました。
1.スタッフの社員化及び固定給制度の導入。賃金倍増を目指す。
2.新人定期採用とその育成。
 ジブリの状況とは裏腹に、当時、日本のアニメーション界は悪化する 一方でした。そんな中で良質な作品を作るためには、拠点の維持、組織の確立、 スタッフの社員化、研修制度の整備等が不可欠である、と判断したわけです。 方針の明確な転換でした。いわば、ジブリの第2期のスタートでした。 ここでも、徳間社長の支持がありました。
 ところで、ぼく自身の話を少しだけします。ぼくがジブリの専従に なったのは、じつはこの時点のことです。それまでは何をしていたか というと、徳間書店が発行するアニメーション専門誌「アニメージュ」 の編集長をしていました。「アニメージュ」には、1978年の創刊に携 わり、1983年に徳間書店が「風の谷のナウシカ」の製作を開始して以来、 雑誌の編集とかけもちで、ぼくはジブリの映画製作にも関わってきたのです。 これを日本語で「二足の草鞋」といいます。ふたつの仕事を同時にやると いう意味です。ものすごく忙しかったけど、本当に充実した毎日でした。 しかし、ジブリの方針転換は、ぼく自身の人生を変えました。もはや後 戻りできないところへ、ジブリもぼくも来ていました。
「魔女の宅急便」の後、ジブリは高畑監督の「おもひでぽろぽろ」に 取りかかりました。そして、この作品制作中の89年11月からは、先程 述べたように、スタッフを社員化・常勤化する一方、動画研修生の制度 を発足させ、毎年定期的な新人採用を開始しました。
 1991年に公開された「おもひでぽろぽろ」も興行関係者の不安をよ そに、大ヒットしました。「魔女の宅急便」同様、この年の邦画NO.1 になったのです。とりわけ嬉しかったのが、宮崎の掲げた2大目標が 達成できたことです。賃金倍増と新人採用。しかし、ある問題も明確に なりました。それは製作費の高騰です。これは作る前からわかっていま した。なぜなら、アニメーションの製作費はその約80%が人件費であり、 賃金を倍増すれば、それは自動的に製作費も倍近くなることを意味し ていたからです。
「ジブリ第2期」の新方針は、必然的に関係者の目を宣伝・興行に 向けさせました。製作費の大幅アップは避けがたい。ならばそれに見 合うだけの観客動員増を、もっと意識的・計画的に手を打って達成す るしかない。それまでも考えていなかったわけではないのですが、 この「おもひでぽろぽろ」が、真剣に宣伝に取り組むようになった きっかけの作品になりました。
 当時ジブリの責任者だった原徹氏が「ジブリは3Hだ」といい出した のもこの時です。HIGH COST, HIGH RISK, HIGH RETURN。大きくお 金をかけて質の高い作品を作り、大きな不安を抱えながらも、大きく 儲けよう。そんな意味だったと思います。あれから随分たちましたが、この言葉は 、いまだに通用します。もっともHIGH RETURNについては、仮にそ の通りになったとしてもすぐに次回作に投入してしまうので、少しも 手元に残りません。さて、社員を抱えるということは、給料を毎月 支払うということです。ジブリは常に作品を作り続けるしかない状況 に自らを追い込んだのです。作り続ける宿命を負ったジブリは 「おもひでぽろぽろ」とオーバーラップして「紅の豚」の制作に突入 しました。オーバーラップはジブリにとっては初めての経験でした。 なにしろ「おもひでぽろぽろ」の追い込みの時期です。ネコの手も借り たいのに、どうやって「紅の豚」に人を割いたらいいのか勝手がわか りません。ジブリに無駄な人間はひとりもいませんでした。結局、 「紅の豚」の制作に突入したのは宮崎ひとりでした。宮崎は文句を いいました。「制作も何もかも、ぜんぶひとりでやれというのか」。 愚痴は聞きましたが、ひとりでやってもらうしかありませんでした。
 第一部为吉卜力创下极佳票房的电影,是1989年由宫崎骏导演的《魔女宅急便》,《魔女宅急便》吸引了大约264,000,000名的观众,同时,它也成为日本全年度最卖座的电影。这部电影所带来的收益及票房,超过了所有吉卜力工作室之前所作的每一部电影。然而,在这次大成功的背后,吉卜力遇上了另一个问题:吉卜力倒底该怎么运作比较好呢?尤其是在雇佣关系、工作人员的召募和工作室的发展方面,更是需要考虑的问题。
 在日本的动画电影界,一般都是按照所画的张数来计算员工的薪资,这也是吉卜力给付它的员工薪资的计算方法。然而,《魔女宅急便》的工作小组所得到的薪水却严重偏低,差不多只有日本平均薪资的一半。于是,宫崎骏做了两个建议:
1.改用全职的雇佣制度以及固定的薪水制度,将工作小组的薪水加倍。
2.固定规律地召募新员工,并且加强训练制度。
 虽然吉卜力工作室的经济状况现在有了改善,但是当时全日本的动画界却是处在低迷状况。因此,想在这样的环境下仍能维持制作的水准,宫崎骏认为吉卜力需要一个固定的工作总部,用来建立坚固的组织系统、实现全职员工制度的理想、同时进行工作人员的训练和扩增的计划。所以可以说,吉卜力的管理经营策略有了很大的转变,自此之后,吉卜力进入了第二个时期。
 继《魔女宅急便》之后,吉卜力的下一部作品是《岁月的童话》导演是高畑勋。在这部电影制作工作进行的同时,1990年的十一月,全职制度实施了,而且吉卜力也开始推行动画训练的课程,每年固定招收新员工的制度也实现了。
 《岁月的童话》这部电影在1991年公开上映,也创下了极佳的票房。和「魔女宅急便」一样,它也成为当年最卖座的电影。不过,最让我们高兴的是,宫崎骏的两个建议全都实现了:加倍的薪水和固定招收新员工。但,这两个方案付诸实行的同时,也产生另一个新的问题:影片制作成本的大幅提高。这是吉卜力早已预料到的结果,既然动画制作的成本有80%是来自人力,那么薪水提高两倍的结果当然会造成成本大为提高。
所以在这个时期,吉卜力的新政策是━━在广告方面做更多的努力,并希望借此来提升票房。如果制作成本的增加是无法避免的话,那唯一的解决之道,就只有利用策略性的手段来提高票房一途了。吉卜力工作室之前并不是没有想过这个问题,只不过是在「岁月的童话」之后,他们才真正想到要在广告方面下功夫。
 大约就在那个时候,吉卜力的总执行长指出了吉卜力工作室的「3Hs」状况。「3Hs」就是指「High Cost」、「High Return」和「High Return」。要制作最高品质的电影,就必须投注很高的制作成本,同时虽然这样做会有很高的风险,但是得到报酬收益却是很大的。这大概就是「3Hs」的意义。从这之后到现在已经过了4年,吉卜力仍然维持着这样的原则。不过,虽然报酬收益很高,却全部又投注在下一部电影的制作上面了,所以吉卜力到现在还是穷光蛋….
 雇用全职员工的意义,就是吉卜力必须每个月给付员工薪水。吉卜力对这个情况的应变方法,是维持一种不断工作的状态,也就是不断地制作新的电影,现在这已成了吉卜力的宿命了。所以,吉卜力工作室不得不开始「红猪」的制作,而当时「岁月的童话」的制作还尚未完工呢!吉卜力第一次遇上这种两部电影制作时间重叠的情况,当时「岁月的童话」正在接近完工、最忙碌的阶段。在这种非常时节,吉卜力根本不可能拨出员工来制作「红猪」。结果呢,在红猪制作刚开始的时候,可怜的宫崎骏竟然必须自己单枪匹马地工作。当然,宫崎骏很不高兴,「什么?你是说我必须自己一个人包办制作、导演和所有的助手角色?…」
ジブリ新スタジオの建設
吉卜力新工作室的建设
 そんなストレスを解消しようとしたのか、宮崎が唐突にいいだしました。 「新スタジオを建てよう!」と。いちばん大変なときにもっと大変なこと を持ち出して、抱えている問題の打開を図るというのが、いつもの宮崎の やり方です。しかし、このとき立てた理屈は人を感心させるものがありま した。優秀な人材を確保しようというのに、仮の住まいでは説得力がない。 容れ物があってはじめて人は集まるし、また人は育つというのです。 スタジオはもうこれ以上は切り詰められないというほど、手狭になって いました。300平米に90人近くのスタッフがひしめき合って仕事をして いたのです。しかし、新スタジオを建てるお金は当時のジブリにはあり ませんでした。 
 常識を楯に大反対したのが原でした。内心無茶だと思いつつ 「何とかなるだろう」と考えたのがぼくです。そして、またぞろ 大賛成してくれたのが徳間社長でした。妙なはげましのことばも掛けて くれました。「鈴木くん、金は銀行にいくらでもある。人間、重いも のを背負って生きてゆくもんだ。」こういう人生観もあるのかと不思議 な感動にとらわれたのを覚えています。「考えがちがう」と言い残し、 原がジブリを去りました。 
 この年の宮崎駿は八面六臂の大活躍、本当に天才でした。「紅の豚」 を作りつつ、そのかたわら、自ら設計図をひき、イメージを建設会社と 打ち合わせ、完成予想図を描き、素材の見本を取り寄せ、選択し、 決定しました。1年後、「紅の豚」と新スタジオはほぼ同時に完成。 「紅の豚」の公開直後、ジブリは東京都小金井市に建てた新スタジオ に引っ越しました。 
 参考までに、現在のスタジオをご紹介すると、敷地面積は約1100平方 メートル、フロアー面積もほぼ同じ。地上3階地下1階です。3階が美術、 2階が作画及び制作、1階が仕上とCG、地下が撮影です。1階には「BAR」とい う名のスペースがありまして、スタッフの交流の場となっています。 もっともここでお酒を飲むことは年に数回しかなく、普段は打ち合わせ とか社員食堂に使っています。最大の特色は、実はトイレです。ジブリ の女子トイレは男子用の倍の面積があります。人数は男女ほぼ同じなの にです。設備も上です。設計者・宮崎のフェミニストぶりの表れといえ ましょう。あと、緑が多いこと、敢えて駐車場を狭くしたことなども 特徴でしょうか。 
 話を戻します。1992年夏「紅の豚」は公開され、スピルバーグの 「フック」やディズニーの「美女と野獣」を抑えて、この年日本で 公開されたあらゆる映画の中でNo.1の興行成績を収めました。
 虽然他苦苦哀求,但是残酷的吉卜力仍然…….

 宫崎骏在接下了红猪的工作之后,不知是为了消解压力还是什么的,提出了一个建议:「嘿!我们来盖一座新的工作室吧!」这就是宫崎骏一贯的方式:当遇到一个问题的时候,就制造一个更大的问题作为解决的方法!!不过宫崎骏的理由倒是很充分:「如果吉卜力想吸引最好的人才,一间租来的办公室未免太寒酸了吧!」所以啦,吉卜力工作室的新家终于开始兴建啦!

 那一年的宫崎骏真是个天才,在制作《红猪》的同时,他也一个人画好了新工作室的蓝图,亲自和建造商接洽,要求工作室完成时能尽量接近他理想的样子。一年之后,《红猪》和新的工作室几乎同时完成.《红猪》一上映,吉卜力就高高兴兴地搬到新家去了。
新的工作室一共有三层楼,整座建筑物最特别的地方大概是休息室了。虽然吉卜力里的女性员工只有男性的一半,但是女生的休息室却比男生大了两倍,而且设备也比较好。可能这是我们伟大的建筑师宫崎骏,在表现他对女性主义的支持吧!!另外,新工作室的绿地也非常多,而停车的空间被宫崎骏刻意弄得比较小了……呵

 回到主题。1992年的夏天《红猪》上映了,又成为年度票房最佳的电影,甚至连史蒂芬史匹柏的电影《虎克船长》和迪士尼的《美女与野兽》都不是对手。
ジブリの特徴
吉卜力的特色
 1993年、ジブリはコンピューター制御の大型撮影台を2台導入し 、念願の撮影部を発足させました。こうして、作画から美術・仕上・ 撮影に至るまでの全部門を持つスタジオに成長したわけですが、 これは、分業が極度に進行している日本のアニメーション業界とは完 全に逆の方向です。これまた、同じ場所で緊密に連携しながら一貫し て作業を進めることが作品の質の向上につながる、という理由からです。 
 この93年、初めてテレビ向けの作品も制作しました。「海がきこえる」 です。監督は当時34歳の望月智充。高畑・宮崎以外の人間が初めて担当 したわけです。制作スタッフも2~30代の若手を中心に編成、「早く安 くうまく」を合言葉に制作に入ったのです。この70分のテレビ・スペシ ャルは、一定の評価は得ましたが、結局予算とスケジュールを大きく超過 してしまいました。テレビはジブリの今後の大きな課題です。
 1994年の高畑監督作品「平成狸合戦ぽんぽこ」は、またもこの年の 邦画No.1となりました。「おもひでぽろぽろ」以降に採用したジブリ育 ちの若いアニメーターたちが作画の中心を担い、大いに力を発揮してく れた作品です。また、「平成狸合戦ぽんぽこ」で、ジブリは初めてCGを 導入しました。このときは3カットだけでしたが、これからも必要に応じ て使っていくつもりです。 
 ところで、現在、スタジオジブリに所属するのは、作画部門47人、 仕上部門10人、美術部門14人、撮影部門4人、CG部門4人、演出・制作部門15人、 出版・商品開発部門5人、そして役員・管理他の部門で12人の計111人 です。こうやって数字を並べてみるとおわかりのように、そのほとんど が絵を描く人です。ちなみに平均年齢は29歳です。ジブリ作品は他のス タジオに比べるとコスト高だという話を繰り返ししてきました。しかし、 この人員構成から分かるように「掛けたお金はほとんどがフィルムになる」 のがジブリの大きな特徴のひとつです。普通の会社に比べると、 間接部門が極端に少ないからです。 
 また、日本の子供たちに見せる作品は日本人自らの手で作るべきだ、 という宮崎監督の哲学を受け、創立以来、海外への外注をいっさい行っ ていないことも特筆されます。
 1993年,吉卜力购进了两部大型的电脑化摄影机,同时也设立了吉卜力渴望已久的摄影部门。新增了这个部门之后,吉卜力终于成长为一个具备作画部门、美术部门、上色部门,及摄影部门的工作室了。这和日本动画工业界的发展方向完全相反,日本动画界一般是强调分工要极度精细的。而吉卜力采用相反发展方向的原因,是因为他们觉得大家在一个屋檐下,为着共同的目标而努力,这样对达到高品质工作是很重要的。
 1993年,吉卜力制作了他们的第一部TV动画,<听到涛声>负责导演的是望月智充,时年34岁。他是第一位除了宫崎骏和高畑勋以外,和吉卜力合作执导影片的导演。这部影片的制作群都非常年轻,大部分由20多岁到30多岁的人组成。他们的工作信条是「快速、便宜而又有品质的制片」。
 这部70分钟长的电视特别节目获得了令人满意的成果,但是在预算及制作时间方面,却超出了计画中所预期的。所以,电视是吉卜力未来仍需发展的领域。
 平成狸合战1994年由高畑勋所导演的《平成狸合战》也成为年度日本国产片的第一名。在这部动画中,大部分的动画部分都是由《岁月的童话》之后新加入吉卜力、在吉卜力成熟的年轻成员完成的,而他们也为「平成狸合战」这部影片下了非常大的努力。在「平成狸合战」中,吉卜力第一次使用电脑作画(CG)。虽然只有3个cut有使用CG,但以后只要有需要,他们会用得更多。
吉卜力现在总共有111个成员了:作画部门47人、上色部门10人、美术部门14人、摄影部门4人、CG部门4人、导演及制作部门15人、出版及商品开发部门5人、其他人员和管理等部门共12人。就如这些数字所显示的,吉卜力大部分的工作成员都是负责动画部分的。全体工作成员的平均年龄是29岁。
 前面有提过,吉卜力的影片制作费可能会比其他的工作室来得高。但是从吉卜力的组织架构来看,大部分的经费都花在影片上面了。这就是吉卜力特别的地方。吉卜力之所以能够这样做,就是因为他们和其他的公司比起来,花在支撑各个部门的费用要少太多了。
 在宫崎骏的哲学中,他认为日本应该自己来创造他们想让日本小孩看的东西。所以,遵循宫崎骏哲学的吉卜力,从未向海外其他国家的工作室请求任何的援助。我们现在来谈谈吉卜力在国外的活动吧!!
ジブリ作品の海外進出
吉卜力作品的海外进军
 さて、この後はジブリ作品の海外進出について話そうと思います。
 ジブリ作品の海外上映は、これまでは香港・台湾などのアジア地域が 主でした。しかし4年あたり前から様子は変わりつつあります。まず 「となりのトトロ」がアメリカで劇場公開され、続いて20世紀フォック スから発売された同作品のビデオソフトは、56万本の売上を記録しました。 これは、日本映画のアメリカでの展開としては画期的なことです。また「 平成狸合戦ぽんぽこ」がアカデミー賞の外国語映画部門の日本選出代表に 選ばれるという出来事もありました。 
 そんなわけで今後はヨーロッパ・北米地域でも、もう少しジブリ作品を お届けできるかもしれない、そんなことを考えていた矢先に、ディズニーとの間で、 ジブリ作品を世界配給するという提携のお話が持ち上がりました。 我々はかねてから、きちんとしたお話ならば受けていきたいと考えていました。 国籍・人種を問わず、沢山の人に見てもらい、 喜んでもらえるのは作り手としては何よりも嬉しいことです。ディズニーなら、 作品を大事にしてくれる。そんな考えのもと、我々はディズニーと提携することを 決めたわけです。
 ディズニーとの提携によって、今後ジブリは、あらかじめ世界市場を 考慮に入れて、いわば多国籍企業的なマーケッティング戦略で作品を作る のかといったら、それは違います。これまで通り、まず日本を対象に 一所懸命作品を作り、海外はその後で考えるという方針が今後も続く と思います。
 到现在为止,吉卜力的作品主要仅限于在亚洲地区发行,也就是香港和台湾两地。大约在两年前,这样的情形渐渐有了改变。首先是「龙猫」在美国的上映。很快地福斯公司取得了发行「龙猫」家用录影带的版权,并且销售量达到560,000卷。在美国的电影界,日本片能有这样的成绩是很惊人的。另外,「平成狸合战」还被选为代表日本角逐奥斯卡最佳外语片呢!
 大家可能也知道,在法国「红猪」曾在六十多个戏院上映,负责配波哥的是一位著名的演员尚雷诺Jane Reno。事实上,宫崎骏本人恰好是Jane Reno的影迷,他非常喜欢Jane Reno在「碧海蓝天Gran Bleu(Great Blue)」这部电影中饰演的角色安索Enzo。所以啦,宫崎骏对尚雷诺Jane Reno能在红猪中参加出当然是非常高兴的。
 吉卜力希望在未来能将作品推广到欧洲和北美,只要是有建设性且合理的提案,他们都会很高兴地采纳。身为动画的创作师,能让更多的观众欣赏自己创作的影片,并给大家带来快乐,吉卜力会很高兴的,不管观众的种族或国籍为何都是一样。但是为了要将作品在国外发行,吉卜力也遇到了很多困难。他们所收到的很多提案,都是只希望将影片录成家用录影带,或是只想在电视上放映而已。但吉卜力却希望他们的电影能以在戏院上映为优先,毕竟电影本来就是为了在电影院放映而制作的。
 当然,吉卜力绝不允许任何人修改他们的作品。然而很不幸的,由于他们经验和思虑的不足,在「风之谷」制作的时候,有人将它改成较短的版本,然后以「Warriors of the Wind」的名字在美国及其他地区上映。
 有一点是仍需强调的,吉卜力从未(今后也是一样)为了市场的考量,而制作一部适合多国市场的影片。吉卜力将会维持一贯的风格,单纯只为日本的观众制作影片。如果情况允许的话,他们才会朝其他的国家发展。
ジブリの未来
吉卜力的未来
 95年の夏に公開された「耳をすませば」では、宮崎がプロデューサー・ 脚本・絵コンテを担当し、これまで「火垂るの墓」「魔女の宅急便」 「おもひでぽろぽろ」のジブリ作品で作画監督などを担当してきた 近藤喜文が初監督に挑戦するという新しい布陣をしいています。また、 技術的にも最新のデジタル技術を各所に導入するなどの実験を行って います。さらに「耳をすませば」に引き続きスタジオジブリでは、 97年公開予定のジブリ長編第11作にあたる「もののけ姫」の制作に 入っています。宮崎監督の作品ですが、これには、ジブリの新たなる 挑戦として、コンピューターを使用した映像表現を大胆に取り入れる 予定です。 
 そのために、社内に95年6月から「CG制作室」を新設し、CG制作システムを 導入すると同時に、日本テレビで「平成狸合戦ぽんぽこ」 のCGを手がけたCGディレクターに出向してもらっています。 また、「耳をすませば」で使用されて成果があった「デジタル合成」は、今作で は本格的に使われていくことになります。平面的だったアニメーションの 表現に、圧倒的な奥行き感を与えることが可能になると考えています。
 また、近藤監督に続きさらに新人監督を発掘しようと、アニメーション の演出塾「東小金井村塾」を95年には開きました。塾頭は高畑勲でした。
 スタジオジブリは、もちろん、今後も今までのような発展を遂げるこ とが保証されているわけでは決してありません。1作1作が、常に新た な挑戦であることを忘れてはいません。今後も内容的にも、技術的にも そして人的な面でも常に革新を続けていくことが、ジブリの理想を保持 していくための最大の条件であると考えています。
 在1995年夏天上映的「侧耳倾听」中,吉卜力尝试了一个新的制作群组合。宫崎骏负责制作、编剧、绘分镜表,而曾在「萤火虫之墓」、「魔女宅急便」及「岁月的童话」中担任动画导演的近藤喜文,则出马挑战导演一职。此外,吉卜力也试着在影片中的各个部分加入了最近的数字技术。在「岁月的童话」完成之后,吉卜力开始着手制作他们的第十一部影片,「幽灵公主」,此片将在1997年上映。这部由宫崎骏执导的电影将会应用非常多的电脑科技,这是吉卜力的一大挑战。为了应付这个新的挑战,吉卜力设立了一个专门的CG小组,也购置了一切CG所需的设备。同时,他们也邀请了一位Nippon Television Network的CG导演加入「幽灵公主」制作小组,这位导演以前也曾在「平成狸合战」中参加制作。
 光是影片制作的第一年,吉卜力就在更新系统上投资了一亿日元。在「侧耳倾听」中表现优秀的电脑技术将会在「幽灵公主」中大量地使用。电脑技术将会使原来只有2D的平面影像变得更加有深度(景深吧…)。
 在1995年的四月,吉卜力创立了一座「东小金井动画学院」(小金井是吉卜力所在的一座市镇),希望能挖掘出并培养更多像近藤这样的新导演人才。学校的校长是高畑勋。
 没人能保证吉卜力工作室能继续像这样顺利地发展下去。吉卜力从来没有忘记,每一部电影对他们来说都是个新的挑战。持续地在品质、技术及人才培育方面不断创新,这就是吉卜力工作室存在的理由。

参考资料