文档:幽灵公主 原声音乐/专辑解说

来自宫崎骏与久石让中文百科
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 雑誌の編集者という自分の仕事のテリトリーに則した比喩で恐縮であるが、エディトリアル・デザインと久石さんが仕事の中心にしているサウンド・トラックは似ているような気がしている。日本には優秀なデザイナーがたくさん居るが、エディトリアル・デザイン、つまり本や雑誌などの編集デザインをする人は少ない。理由は簡単で、報われる事の少ない仕事だからだ。広告デザインをやれば大きなお金になるし評価をする賞もたくさんある。しかしエディトリアル・デザインはお金にならないし、評価される場もない。仕事が簡単ならばいいが、ある意味で広告よりも才能と労力を要求される場合が多い。サウンド・トラックも同じだ。大きな才能と労力を要求されながら、報われる事の少ない仕事である。それこそ久石さんほどの才能があれば、それをお金に変える方法はポップ・ミュージックのフィールドにたくさんある。しかし久石譲はサウンド・トラックの仕事にこだわり続け、僕達はそのおかげで数多くの幸福な映像体験を持つことができた。
 サウンド・トラックとエディトリアル・デザインの似ているところは他にもある。欧米における地位の高さだ。ジョン・ウィリアムズやエンニオ・モリコーネ、あるいはヘンリー・マンシーニなど巨人として知られている人は無論の事、若手にも優秀な才能が続々と現れている。そして、そういう才能はすぐに引っぱりダコになる。エディトリアル・デザインの世界もそうだ。例えば、イタリアン・ヴォーグやローリング・ストーンといった雑誌のAD(アート・ディレクター)が変わったりすると、編集長交替以上に話題になる。実際、ADが交替して売り上げが激減なんて事もあったりするのだから、当然だろう。同じ事がサウンド・トラックにも言える。ジョン・ウィリアムズの音楽なしの”スター・ウォーズ”は考えられないし、久石譲のない”風の谷のナウシカ”は考えられない。だから、もっともっと久石譲は評価されていい。僕も音楽評論家なんだから、余り客観的な事ばかり言っていてはいけないのだけれど。
 では、何故にそういう貧しいエディトリアル・デザイン状況と、サウンド・トラック状況が生まれてしまったのか。理由は簡単だ。編集者と演出家が駄目だからだ。金がないの、余裕がないの、といった言い訳はいくらでもできるが、結局はそういう事だと思う。そんな中でも久石譲が存在する事ができたのは、宮崎駿を筆頭に優れた演出家が彼の仕事を理解したからだ。澤井信一郎、北野武、という日本映画のトップとの仕事がほとんどなのは、偶然ではなく、必然である。ゲーム業界の広井王子から宮崎駿まで、久石譲がいかにコラボレーションの対象を慎重に選んでいるかがよく分かる。
 久石譲と宮崎駿の最新作は”もののけ姫”である。まだ作品は観ていないが、サウンド・トラックの出来は素晴らしい。いつも久石さんの仕事で感心するのは、テーマに相当するメロディーの許容量の大きさだ。サウンド・トラックの場合、ただ単にメロディーがポップ・ミュージックとしてキャッチーであればいい、というものではない。このCDを聞いても分かるように、このテーマのメロディーはいろいろなシチュエーションで反復される。ある一定の情緒しか呼び起こさないメロディーだと、状況変化の反復に耐えられないのだ。悲しいだけのメロディー、楽しいだけのメロディー、といったものでは駄目なのである。その点、この”もののけ姫”のテーマは、実に広いレンジの情緒に対応する力を持っている。まさにサウンド・トラックとして理想的だ。こうした点だけを考えても、いかにサウンド・トラックを作りあげていく作業が大変であるか分かると思う。
 僕は演出家、宮崎駿も大好きだし、音楽家、久石譲も大好きである。この2人の共同作業を体験できる限り、日本映画も捨てたもんではないという気がして来る。そして僕も編集者としていい仕事をしなくちゃ、と改めて襟を正す気持ちになってくる。
渋谷陽一