文档:The Best of Cinema Music/東日本大地震寄稿

出自宫崎骏与久石让中文百科
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もう今は夢を語るときではない 
- 東日本大震災に寄せて -
4月9日サントリーホールで「久石譲 Classics vol.3」として、ベートーヴェンの交響曲5番「運命」と7番とともに新作「5th Dimension」を発表した。「運命」のモティーフを使って新たなミニマル曲を作る構想だったが、その作曲期間中に東日本大震災が起こり、その影響が色濃くでた悲痛な楽曲に仕上がった。癒し、安らぎと決定的に違うその曲を演奏していいのかコンサートの前日まで悩んだ。
多くのコンサート・イヴェントが自粛で中止している最中のコンサートは大勢の人たちから賞賛の言葉をいただき、自分の震災に対する考え、行動は終えたはずだった。
音楽家は音楽で伝えればいい、僕はそう考えていた。
そして東日本大震災から2ヶ月が過ぎた。
未曾有の危機の中で多くの人々が温かい視線で被災地、及び被災者を見守り、一人一人ができることを献身的に行い、我々はひとりではない、皆繋がっていると呼びかけ、このゴールデンウィークには大勢のボランティアが東北に集まった。日本人のマナーの良さは世界から称賛を浴び、2000億円もの義援金が集まった。だが、だからといって事態は良い方向に向かっているとは言いがたいと僕は考える。
地震、津波は自然の猛威であるが原発は人災だ。かつて広島に投下された原子爆弾で我々は世界で初めてその脅威にさらされた。多くの人を失い、今なお苦しんでいる人たちが大勢いる。その国で原子力を扱うなら世界のどの国よりも神経質なまでに注意を払うべきだった。が、東電、政府関係者、学者と言われている人たちは「想定外」という。では想定内はどこまで指していたのか、そもそもその想定内のこととは何を基準に決定されていたのか?
日本国を沈没させかねないこの総てを自分に都合良く解釈し、目の前の出来事を都合よく説明するこの日本人はどこから来たのか?
震災の夜、西麻布の交差点で見た渋谷の駅を目指し整然と歩く人たちに驚いた。隊列を組んだように従順に歩くその姿は羊の群れのようで、この国の人たちはいつからこんなに飼いならされたのかと悄然とした。
例えば若者は言葉が通じない海外に行くことを嫌がり草津の温泉で足湯につかり、男たちは場所もわきまえずキャンキャンと居酒屋しゃべりに熱中する。かつての男たちはあんなに甲高くベラベラと喋っていたのだろうか?海外の大学生はそれぞれの国の問題に対してデモなりで抗議の意思表示をするが、日本の学生のデモは久しく聞いていない。
一事が万事、このような国の今のあり方に僕は憂慮する。今半分しか動いていない日本の経済はこの秋、そして1年後にボディーブロウのように効いてきて想像を絶するダメージが我々を襲うと考える。
もう夢や安らぎ、癒しを語っているときではない。
震災があったためにこの国がどうなるかではなく、もともとこの国はどうなるのかが問題だったのだ。
怒れ、日本人!
自分の意思を鮮明にしろ!
原発の内部で作業する人たちは本当に死を賭して頑張っているし、避難所の人たちは家族や友人、身内の大事な人を失っても健気に生きている。彼らの姿勢から非被災者である我々は本当に多くのことを学ばなければならない。
音楽家は音楽で伝えればいい、僕の考えはそうである。が、社会の一員である自分ができることはまだまだ沢山ある。個人で寄付するだけではなく、もっと社会に貢献できることがあるはずだ。例えば、楽器を失った子どもたちにもう一度皆で演奏する喜びを取り戻してもらいたい。そのための楽器購入支援ができないか。そう考えていた矢先に多くのチャリティーコンサートがポップスやクラシックで組まれていることを知った。まるで免罪符のようにチャリティーをうたったコンサートの多くは、癒しや安らぎをテーマにしているものが多かった。
それでいいのか?という疑問を持った。今は、そんな時ではない。
その瞬間コンサートを行うことを決めた。
折しもポーランドのクラクフで行われる映画音楽祭のために作った自作の映画音楽のプログラムをベースにして、音楽と映像の本格的で大規模なコンサートを行う。そして本物の感動を伝えたい。場所は東京と大阪、それにパリと北京も決定した。
4月の末に気仙沼と陸前高田市、それに大船渡を訪れた。空気感を伴ったその惨状のまえで、自分のやろうとしていることは砂丘の一粒にもならないことを実感した。しかし、立ち止まってはいけない。できることがある人は、それをやらなくてはいけない。被災された方々のためにも、被災地の復興のためにも、我々は音楽、もっと言えば経済を止めてはいけない。
昔から日本人はこの美しい国で自然災害に見舞われながら力強く生きて来た、自然と共生して来た、その力を信じたいと考えた。
映画「もののけ姫」のラストで「ともに生きよう」というセリフがある。それはお互いの痛みを分かち合いながら、希望を持ってそれぞれの場所でしっかり行動せよという意味にも僕には取れる。
慣れ合いのぬるま湯から、真の心の独立を目指し、僕は僕の場所でできることを精一杯行っていく覚悟である。
2011年5月11日
久石譲