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●1941年
1月5日、東京都文京区に生まれる。男ばかり4人兄弟の次男。
●1944年~1946年
一家をあげて栃木県宇都宮市および鹿沼市に疎開する。鹿沼市に伯父の経営する“宮崎飛行機”という会社があって、父親もその会社の役員であったため。
●1947年~1952年
栃木県宇都宮市の小学校に入学。3年生まで在学し、4年生からは東京に戻り、杉並区立大宮小学校に編入。5年生のときに、大宮小から分かれて新設された永福小学校へ。福島鉄次の「沙漠の魔王」の熱烈なファンだった。
●1953年~1955年
永福小学校を第1回卒業生として卒業。杉並区立大宮中学校に入学する。活動好きの父親や、お手伝いさんといっしょに、映画を観に行くことが多かった。印象に残っているのは「めし」('51年、東宝、成瀬巳喜男監督)「たそがれ酒場」('55年、新東宝、内田吐夢監督)等。
●1956年~1958年
大宮中学校を卒業。都立豊多摩高校へ入学する。この頃からマンガ家になろうと思い、絵の勉強を積極的に始める。高校3年のとき、日本初のカラー長編動画「白蛇伝」('58年、東映動画)を観て、アニメーションに興味を持つようになる。
●1959年~1962年
豊多摩高校を卒業。学習院大学政治経済学部に入学する。専攻ゼミは“日本産業論”。
大学へ入ってみたらマンガ研究会はなく、いちばん近そうな児童文学研究会に入る。部員が宮崎駿ひとりということもあった。“マンガの修行”をしていることになっていて、ひたすら描いて、貸本用の出版社へ持ち込みなどもする。完成した作品はなし。数千枚の大長編の描き出し部分のみたまる。
大学で唯一面白かった講義は久野収の授業。この頃、堀田善衞などの作品を読む。映画はATGの活動開始直後で「尼僧ヨアンナ」('60年、ポーランド映画、公開は'62年)などを観る。
'60年安保は傍観者だったが、活動が退潮期に入ってから、『アサヒグラフ』に載った写真を見て、関心を持ち始める。無党派でデモに参加するも、時すでに遅し。
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1941年
1月5日,誕生於東京都文京區。是家中四兄弟中的次男。
1944年~1946年
舉家遷移至栃木縣宇都宮市和鹿沼市。因其伯父所經營「宮崎飛機公司」就在鹿沼市,且其父親為該公司的員工。
1947年~1952年
進入栃木縣宇都宮市的小學就讀。唸到三年級,於四年級時回到東京,插班就讀杉並區立大宮小學。五年級時,轉至大宮小學新設的分校永福小學就讀。當時是福島鐵次的「砂漠之魔王」的熱情影迷。
1953年~1955年
以永福小學第一屆畢業生身分畢業。隨後進入杉並區立大宮中學就讀。經常與喜愛各項活動的父親和傭人一起去看電影。印象深刻的電影有「飯(めし)」(1951年、東寶、成瀨已喜男導演)、「黃昏酒國(たそがれ酒場)」(1955年、新東寶、內田吐夢導演)等。
1956年~1958年
畢業於大宮中學。進入都立豐多摩高中就讀。當漫畫家的夢想於此時萌芽,開始稂極學進。高中三年級時,因觀看日本首部彩色長篇動里「白蛇傳」(1958年、東映動畫),而對動畫產生興趣。
1959年~1962年
畢業於豐多摩高中。進入學習院大學政治經濟學部就讀。專攻研究的是「日本產業論」。
進入大學之後,由於學校社團裏沒有漫畫研究會,於是轉而進入性質最為接近的兒童文學研究會。有時整個研究會只剩宮崎先生一人獨撐大局。
在這段「漫畫修行」期間裏,宮崎先生認真專注地畫畫,偶爾還會拿到出版租書店專用漫畫的出版社投稿。沒有完整的作品。只累積了數千張大長篇的草圖。
在大學唯一感到有趣的科目是久野收氏的課程。同時也開始閱讀堀田善衛氏等人的作品。在電影方面,ATG(藝術電影院)的活動正方興未艾,觀賞過「天使的母親喬(尼僧ヨアンナ)」(1960年、波蘭電影、1962年正式上映)等電影。
1960年發生安保運動時,雖然只是一名旁觀者,但等到抗議活動進入退潮期,才因為看到刊載於『Asahi Graph』的照片而開始關心。但就算以無黨派身分參加示威遊行,也為時已晚。
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●1963年
学習院大学を卒業。東映動画の最後の定期採用で入社。
入社後、東京都練馬区に4畳半のアパートを借りる(家賃6000円)。初任給は1万9500円(3ヶ月の養成期間中は1万8000円)。
はじめて動画として参加した作品は「わんわん忠臣蔵」(演出・白川大作)。その後テレビシリーズ「狼少年ケン」の動画を担当。
●1964年
劇場用作品「ガリバーの宇宙旅行」(演出・黒田昌郎)の動画。テレビシリーズ「少年忍者 風のフジ丸」の原画手伝い。組合の書記長をつとめる(同時期の副委員長が高畑勲)。
●1965年
テレビシリーズ「ハッスルパンチ」の原画。秋頃から劇場用長編「太陽の王子」の準備に自主参加。ほかに参加していたメンバーとして、演出の高畑勲、作画の大塚康生・林静一などがいた。10月、同僚の大田朱美と結婚。新居は東京都東村山市に。
盲腸炎の手術で入院したこの年の秋、“岩男”の絵を描いたのが「太陽の王子」への参加の始まり。長編が作れなくなるかもしれないという危機感と、組合運動で作られたメインスタッフ間の連帯感が、作品の基調となる。
●1966年
「太陽の王子」に参加。場面設計・原画を担当。4月に作画インしたが、制作遅延のため10月に中断。テレビシリーズ「レインボー戦隊ロビン」の原画を描いてすごす。
●1967年
1月「太陽の王子」制作再開。長男が誕生する。この年いっぱい「太陽の王子」にかかりきりになる。'54年製のシトロエン2CVを購入。
●1968年
3月「太陽の王子」初号試写。7月に「太陽の王子 ホルスの大冒険」として公開される。テレビシリーズ「魔法使いサリー」の原画。その後、劇場用長編「長靴をはいた猫」(演出・矢吹公郎)の原画に入る。
●1969年
4月、次男誕生。練馬区大泉学園へ転居。劇場用「空飛ぶゆうれい船」(演出・池田宏)の原画、テレビシリーズ「ひみつのアッコちゃん」の原画を担当。9月から翌'70年3月まで『少年少女新聞』にオリジナルマンガ「砂漠の民」を連載する(ペンネーム・秋津三朗)。
●1970年
「ひみつのアッコちゃん」の原画。劇場用長編「どうぶつ宝島」(演出・池田宏)の準備班に参加、アイデア構成と原画を担当。埼玉県所沢市の現住所に転居する。
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1963年
畢業於學習院大學。進入東映動畫,成為最後一批定期採用社員。同期生包括土田勇(美術)、角田紘一、高橋信也(卡通繪圖)等人。
進入公司以後,賃屋住在東京都練馬區一間4帖半大的公寓(房租6000日圓)。剛開始的起薪是1萬9500日圓(前3個月的培訓期是1萬8000日圓)。
參與製作的第一部動畫作品是「汪汪忠臣藏」(監製·白川大作)。之後擔任電視卡通動進系列「狼少年健(狼少年ケン)」的製作。
1964年
劇場版作品「格列佛的宇宙旅行」(監製·黑田昌郎〕的動畫製作。電視卡通系列「少年忍者風之富士丸」的原畫助理。
擔任工會的書記長(同時期的副委員長是高畑勳先生)。
1965年
參與電視卡通系列「Hustle Punch」的原畫製作。入秋之後,主動參加劇場用長篇「太陽王子」的籌備工作。其他的參加成員還包括擔任導演的高畑先生、繪圖的大塚康生·林靜一等人。10月與同事太田朱美結婚。新居位在東京都東村山市。
該年秋天因盲腸炎而住院開刀,期間所畫的「岩男」是促使宮崎先生參與製作「太陽王子」的開端。一種說不定再也無法製作長篇的危機感和因工會運動而與主要成員所產生的連帶感,成為這部作品的基調。
1966年
參與「太陽王子」的製作。擔任場面設計·原畫工作。雖然從4月開始作畫,但因製作延遲而於10月暫停作業。只好繪製電視卡通系列「彩虹戰隊羅賓」的原畫。
1967年
1月再度展開「太陽王子」的製作。長男誕生。一整年都投入「太陽王子」的製作工作。購買1954年製的雪鐵龍2CV。
1968年
3月「太陽王子」首號試映。7月以「太陽王子霍爾斯的大冒險」的名稱公開上映。擔任電視卡通系列「魔法使莎莉」的原畫(77集和80集)。之後,致力於劇場版長篇「穿長靴的貓」(導演·矢吹公郎)的原畫作業。
1969年
4月,次男誕生。移居至練馬區大泉學園。擔任劇場用「飛空幽靈船」(導演·池田宏)的原畫、電視卡通系列「秘密的阿可」(44集和61集)的原畫製作。9月至隔年1970年3月為止,在『少年少女新聞』連載原創漫畫「砂漠之民(砂漠の民)」(筆名·秋津三朗)。
1970年
繪製「秘密的阿可」的原畫。參加劇場版長篇「動物寶島」(導演·池田宏)的籌備班底。移居至現居地埼玉縣所澤市。
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●1971年
劇場用長編「アリババと40匹の盗賊」(演出・設楽博)の原画を最後に、東映動画を退社する。高畑勲・小田部羊一とともにAプロへ移る。新企画「長くつ下のピッピ」のメインスタッフとして、準備に入る。
8月、東京ムービー社長・藤岡豊とともにスウェーデンへ。初の洋行である。「ピッピ」の原作者リンドグレーンに会うためと、舞台となるゴトランド島(実写の「ピッピ」はここでロケされた)のロケハンのため。中世の面影を残す城塞都市ヴィスビーのたたずまいに衝撃を受ける。しかし、原作者との面会は果たせず。ストックホルム郊外のスカンセン野外博物館を訪ねる。
結局「ピッピ」は準備のみで終わる。その後「ルパン三世」(最初のテレビシリーズ)に途中から参加。高畑とともに演出を担当。「ピッピ」での経験は、その後の「パンダコパンダ」や「ハイジ」に生かされるようになる。また、ヴィスビーとストックホルムのイメージは後に「魔女の宅急便」の舞台設定にも登場することになった。
●1972年
「ルパン」終了後、ちばてつや原作の「ユキの太陽」のパイロット・フィルムを作るが、企画は実現せず。テレビシリーズ「赤胴鈴之助」の絵コンテを描く。このほかテレビシリーズ「ど根性ガエル」の絵コンテを描いたが、採用されず。
折からのパンダ・ブームにのった劇場用中編「パンダコパンダ」(演出・高畑勲、作画監督・大塚康生、小田部羊一)に参加。原案・脚本・場面設定・原画を担当する。キワモノ的企画を逆手にとった、ある女の子の日常生活の中にパンダの父子がやってくるというこの作品は、楽しくスリリングで、のちの「となりのトトロ」の原点を見る思いがする。
●1973年
劇場用中編「パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻」(メインスタッフは前作に同じ)の脚本・美術設定・画面構成・原画を担当。前作が好評だったため、続編を作ることになったのだが、宮崎駿らしさがより出た作品となった。この後テレビシリーズ「荒野の少年イサム」「侍ジャイアンツ」の原画を1話ずつ担当。6月、高畑・小田部の2人と共にズイヨー映像へ移籍し「アルプスの少女ハイジ」の準備に入る。7月、ロケハンのためスイスへ行く。
●1974年
テレビシリーズ「アルプスの少女ハイジ」の場面設定・画面構成。“名作シリーズ”を定着させた名作として、日本だけでなく、世界各地でも好評を得ている作品。宮崎は、演出・高畑、作画監督・小田部と共に強力トリオを組んで仕事をしていた。宮崎の役割は、演出と作画・美術とのあいだをつなぐ主として“レイアウト”と呼ばれる仕事。単に画面全体の構図を決めるだけでなく、動きまでも考えた“画面構成”で、実写で言えばカメラマンに近いものである。文字通り、“絵を描かない”演出家・高畑勲の手となり足となり目となって、全52話の全カットをレイアウトした。
●1975年
テレビシリーズ「フランダースの犬」の原画を手伝ったあと、翌年の「母をたずねて三千里」の準備に入る。7月、イタリアとアルゼンチンへロケハン。ズイヨー映像のスタッフは日本アニメーションとして独立。
●1976年
テレビシリーズ「母をたずねて三千里」の場面設定・レイアウトを担当。やはり高畑・小田部・宮崎の3人がメインスタッフ。
●1977年
テレビシリーズ「あらいぐまラスカル」の原画のあと、6月「未来少年コナン」の準備に入る。宮崎駿初の本格的演出作品。シンエイ動画に在籍中の大塚康生に協力を依頼。
●1978年
テレビシリーズ「未来少年コナン」(NHK初の30分アニメ)の演出。
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1971年
忙完劇場版長篇「阿里巴巴與四十大盜」(監製·設樂博)的原畫·構思之後,正式離開東映動畫。與高畑勳·小田部羊一先生一起轉往A Pro.。以新企畫「長靴下的皮皮」主要工作人員的身分進行籌備工作。
8月,與東京MOVIE社長·藤岡豐先生一起前往瑞典。是首次出國。目的是要與「皮皮」的原作者林格蘭(Astrid Lindgren)見面,並到外景地歌特蘭島(電影版的「皮皮」就是在此地拍攝)勘查。在看過殘存着中世風貌的城塞都市威士比(Visby)之後,內心受到相當的衝擊。只可惜,最後並未與原作者見面。順道參觀位於斯德哥爾摩近郊的斯勘先野外博物館。
結果,「皮皮」無疾而終。然後便中途加入「魯邦三世(舊)」的製作行列。與高畑先生一起擔任監製。在「皮皮」所學得的經驗,剛好可以活用在稍後的「熊貓家族」和「小天使」的製作上。而威士比和斯德哥爾摩也成為日後「魔女宅急便」的舞台。
1972年
「魯邦」結束後,製作完成了千葉鐵也的原著「ユキの太陽」的試映片(註/為了推銷企畫案所製作的影片),但是企畫案沒有付諸實現。替電視卡通系列「赤胴鈴之助」繪製分鏡腳本(第26集和27集)。此外,也畫了電視卡通系列「ど根性ガエル」的分鏡腳本,可惜未能被採用。
加入迎合當時的熊貓熱所推出的劇場版短篇「熊貓家族」(監製·高畑勳、作畫監督·小田部羊一)的製作行列。擔任原案·腳本·場面設定·原畫。這部作品完全是應景順勢的企畫,內容敘述熊貓父子瘡入一名女生日常生活中的種種趣事,好玩又緊張剌激,是後來「龍貓」的製作原點。
1973年
擔任劇場版短篇「熊貓家族·雨中馬戲團之篇」(主要工作人員同前述作品)的腳本·美術設定·畫面構成·原畫。雖然是因為前述作品大受好評才決定推出續篇,但整部作品更具有宮崎先生的風格。之後,擔任「荒野的少年」(15集)、「侍ジャイアンツ」(l集)的原畫。6月,和高畑·小田部兩位一起轉至ズイヨー映像,開始籌拍「小天使」。7月,前往瑞士勘查外景。
1974年
擔任電視卡通系列「小天使」的場面設定·畫面構成。是所推出的「名著系列」中令人印象深刻的作品,在日本和世界各地皆廣受好評。與監製·高畑、作畫監督·小田部組成強力的三人拍檔,致力於卡通動畫製作。宮崎先生的主要工作是將監製和作畫·美術銜接起來,也就是擔任版面設計的工作。不光只是決定畫面整體構圖,連「畫面構成」的所有動作都得兼顧,以拍寫實電影來說,大概相當於攝影師。負貴擔任「不畫只導」的導演·高畑先生的手腳和眼睛,設計出全52集的所有畫面。
1975年
做完電視卡通系列「龍龍與忠狗」的原畫之後,開始籌備預計隔年推出的「萬里尋母」。7月,前往意大利和阿根廷勘査外景。ズイヨー映像的原工作團隊宣佈獨立,成立日本Animation公司。
1976年
擔任電視卡通系列「萬里尋母」的場面設定·畫面設計。主要成員仍然是高畑·小田部·宮崎3人。
1977年
做完電視卡通系列「浣熊拉斯卡魯」的原畫之後,6月起開始籌拍「未來少年科南」。是宮崎先生首度正式擔任導演的作品。拜託隸屬シンエイ動畫的大塚康生先生給予協助。
1978年
擔任電視卡通系列「未來少年科南」(NHK第一支30分鐘卡通)的導演。
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1979年~1982年 「風の谷のナウシカ」連載開始まで。
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●1979年
テレビシリーズ「赤毛のアン」(演出は高畑)の場面設定・画面構成を15話まで担当。「ルパン」の新作映画第2弾を作るために東京ムービー新社へ。12月「ルパン三世 カリオストロの城」として完成。初の劇場用長編作品の監督。脚本・絵コンテも担当した。興行的には不成功に終わったが、注目したファン・映画関係者の根強い支持を得た。作画監督の大塚康生は、かつて最初のテレビシリーズの「ルパン」を創り出した人。作画の中心には友永和秀など若手が入り、タイミングのいい動きで、新しいルパン像を作った。
●1980年
テレコムの新人(第2期)の養成をする。テレコムは東京ムービー新社内の作画スタジオというべき会社で、前年から新人の定期採用を開始していた。「カリオストロの城」にも、そうした若いアニメーターたちが参加していたが、その作画スタッフを中心に「ルパン三世」(テレビ版新シリーズ)の145話と155話の脚本・演出を担当する。そのペンネーム照樹務はテレコムのもじりである。その間、新企画のためのイメージボードを描いたりする。「もののけ姫」はそのひとつである。また、“所沢のオバケ”と呼ばれていた「トトロ」のイメージボードのいくつかもこのころに描かれている(もっとも最初期のアイディアは「ハイジ」のころに存在していた)。
●1981年
映画企画「リトル・ニモ」および「ロルフ」、イタリアRAIとの合作「シャーロック・ホームズ」の準備にたずさわる。そのために、アメリカやイタリアへ出かける。「リトル・ニモ」は最終的に'89年7月、劇場用作品「ニモ」として公開されたが、もともと東京ムービー新社社長・藤岡豊が長年あたためてきた企画で、この当時、宮崎と近藤喜文が準備班として参加していた(のちに高畑が宮崎にかわって演出となるが、高畑も途中で交代した)。
この年の8月号の『アニメージュ』ではじめての宮崎駿特集が組まれ、それが徳間書店と宮崎の本格的なつきあいのきっかけ。
●1982年
『アニメージュ』2月号から、マンガ「風の谷のナウシカ」の連載開始。ほとんど同時期に「名探偵ホームズ」の演出に入る。
“マンガでしかできないこと”を目指して、宮崎が構想したのが「ナウシカ」だった。独特のタッチと絵の密度は、関係者に衝撃を与えただけでなく、作品世界の奥深さに、多くの人が驚嘆した。ただ残念なことに、ほかの仕事との兼ね合いと、絵の密度のために、なかなか連載回数は進まなかった。
「名探偵ホームズ」はテレコムの作画・演出スタッフで4話分のフィルムを制作。宮崎が関わったのは6本だった。11月、ムービー新社を退社。
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1979年
擔任電視卡通系列「清秀佳人」(由高畑先生擔任監製)至15集為止的場面設定·畫面構成。為了製作新的魯邦而轉往東京電視台新社。12月「魯邦三世卡利歐斯特羅城」完成。首次擔任劇場版作品的導演。同時負責腳本·分鏡。雖然未能造成轟動,卻得到許多影迷·電影相關人士的強力支持。此外,片中的英雄人物——克萊李斯還獲得卡通迷的超高人氣支持。後來以克萊李斯為主的同人誌也出版了相當久的時間。
此片的作畫監督大塚康生先生正是最初的「魯邦」電視卡通系列的創始人。在作畫方面,則有友永和秀等新人加入,塑造出肢體語言更加逼真的新魯邦形象。
故事開頭的兩車追逐畫面、魯邦和次元之間幽默風趣的對白、城堡和羅馬水道的設定、武打動作等,都像拼圖一樣組合得相當完美,可說是高優質的娛樂電影。而騙取可愛少女心的「怪叔叔」魯邦,則表現了創作者的心聲。
1980年
負責培訓Telecom的新人。Telecom是東京MOVIE新社內名為作畫工作室的新公司,從前年開始定期採用新人。這些卡通動畫新手曾經參與「卡利歐斯特羅城」的製作工作,其中負責作畫的新手成員還擔任「魯邦三世(新)」第145集和155集的腳本·導演。筆名取為照樹務,就是仿照Telecom的日語發音。期間也繪製新企畫的藍圖。「魔法少女」就是其中之一。此外像被稱為「所澤妖怪」的「龍貓」的藍圖等,也是在這個時期完成(若追溯到最早期的構思作品,應該是從「小天使」時期就已開始)。
1981年
參與電影企畫「Little Nemo」和「Rowlf」、與意大利RAI合作的「The Sherlock Holmes」的薄備工作。因此前往美國和意大利等地。
「Little Nemo」雖然在1989年7月以劇場版作品「Memo」的名義推出,但其實是東京MOVIE新社社長·藤岡豐先生多年來所催生的企畫案,宮崎先生和近藤喜文先生只是參與籌備工作而已(高畑先生後來接替宮崎先生擔任監製,但他最後也把棒子交給了別人)。
這年8月號的『Animage』推出首度的宮崎駿特輯,也開啟了德間書店和宮崎先生的合作契機。
1982年
『Animage』從2月號開始連載「風之谷」的漫畫。宮崎先生也差不多在同時期擔任「福爾摩斯(名探偵ホームズ)」的導演。
「風之谷」是宮崎先生以「只有漫畫才做得到」為目標所構想出來的作品。獨特的手法和畫的密度帶給相關人士無限衝擊,作品世界的深奧內涵令許多人驚歎不已。唯一可惜的是,由於宮崎先生還要忙其他事情,加上畫的密度極高,所以連載次數緩慢。
「福爾摩斯」由Telecom的作畫·導演團隊製作出4集左右的底片。宮崎先生只參與製作了6集。11月,離開MOVIE新社。
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1983年~現在(1996年)/至「幽靈公主」製作為止
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●1983年
「ナウシカ」の映画化が始動。高畑がプロデューサーに、制作スタジオは原徹が社長のトップクラフトに決定する。このメンバーは東映動画時代「太陽の王子」に関わったメンバーでもある。東京都杉並区阿佐ヶ谷に準備室を開設。8月に作画インした。宮崎は監督・脚本・絵コンテを担当。
一方、マンガ「ナウシカ」の連載は6月号までで中断される。6月、アニメージュ文庫から描き下ろし絵本「シュナの旅」を刊行。
●1984年
3月、映画「ナウシカ」完成(東映配給で3月11日公開。同時に「名探偵ホームズ 青い紅玉の巻/海底の財宝の巻」が上映された)。4月、杉並区内に個人事務所「二馬力」設置。次回作を考える中から、福岡県柳川市を舞台にした記録映画の構想が生まれ、高畑を監督として、制作を開始する(これは「柳川堀割物語」として'87年4月に公開された)。『アニメージュ』8月号からマンガ「ナウシカ」の連載再開。
●1985年
新作映画「天空の城ラピュタ」の準備に入る。マンガ連載は5月号で中断。東京都武蔵野市吉祥寺にスタジオジブリを設立。5月、イギリス・ウェールズ地方へロケハンに行く。
●1986年
8月2日、東映配給で「天空の城ラピュタ」公開。監督・脚本・絵コンテを担当。同時上映に「続・名探偵ホームズ ミセスハドソン人質事件/ドーバー海峡の大空中戦」。『アニメージュ』12月号からマンガ「ナウシカ」再開。
●1987年
「ナウシカ」連載を6月号で中断。「となりのトトロ」の準備に入る。制作はやはりスタジオジブリで「火垂るの墓」との2本立て。
●1988年
4月16日、東宝配給で「となりのトトロ」公開。原作・脚本・監督を担当。昭和最後の邦画ベスト1(『キネマ旬報』等)となる。
●1989年
7月29日、東映配給で「魔女の宅急便」公開。プロデューサー・脚本・監督を担当。
●1990年
『アニメージュ』4月号からマンガ「ナウシカ」再開。
●1991年
「おもひでぽろぽろ」(監督・高畑勲)の製作プロデュースを担当。「ナウシカ」連載を5月号で中断。「紅の豚」の準備に入る。
●1992年
7月18日、東宝配給で「紅の豚」公開。原作・脚本・監督を担当。8月、東京都小金井市梶野町にスタジオジブリの新スタジオ完成。
日本テレビのスポットとして放映された短編映画「そらいろのたね」の監督を担当。同じく日本テレビのスポット「なんだろう」の演出・原画を担当。制作は両作品ともスタジオジブリ。
●1993年
『アニメージュ』3月号からマンガ「ナウシカ」再開。
●1994年
「平成狸合戦ぽんぽこ」(監督・高畑勲)の企画を担当。『アニメージュ』3月号で「ナウシカ」最終回を迎える。
●1995年
7月15日公開の「耳をすませば」(監督・近藤喜文)の脚本・絵コンテ・製作プロデューサーを担当。同時上映の短編映画「On Your Mark」では、原作・脚本・監督をつとめる。
●1996年
7月、これまでに書いた文章をまとめた単行本「出発点」を刊行。
●1997年
7月12日、東宝配給で「もののけ姫」公開。原作・脚本・監督を担当。邦画の興行新記録を樹立する。
●1998年
2月、ベルリン映画祭に出席のためドイツへ。途中ウィーンに寄る。3月、サン・テグジュペリの足跡をたどるテレビ番組の企画でフランス経由でサハラ砂漠へ。
6月、東京都小金井市に二馬力のオフィス兼アトリエを設置(通称「豚屋」)。9月から半年間、東小金井村塾2を開く。塾頭としてアニメーションの演出志望の受講者に対し講義をする。
●1999年
9月、「もののけ姫」の北米公開のキャンペーンのために渡米。
●2000年
3月、東京都井の頭公園で「三鷹の森ジブリ美術館」の起工式が行われる。
●2001年
7月、「千と千尋の神隠し」公開。
10月、三鷹の森ジブリ美術館開館。
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1983年
開始醞釀將「風之谷」拍成電影。決定由高畑先生擔任製作人,製作工作室則是由原徹先生擔任社長的特助。這些工作人員同時也是東映動畫時代製作「太陽王子」的成員。簿備室設在東京都杉並區阿佐之谷。於8月開始作畫。宮崎先生擔任監督·腳本·分鏡。
另一方面,「風之谷」漫畫連載進行到6月號便宣告中斷。6月,在Animage文庫刊載素描繪本「シュナの旅J。
1984年
3月,完成電影「風之谷」(以東映發行的方式於3月11日公開放映。同時還放映「福爾摩斯/藍色紅寶石·海底的財產」)。4月,在杉並區成立個人事務所「二馬力」。腦中一邊思索著下部作品的內容,一邊萌發以福岡縣柳川市為舞台拍攝紀錄片的構想,於是以高畑先生擔任監督,開始進行製作(這就是於1987年4月公開放映的「柳川堀割物語」)。於『Animage』8月號再度連載漫畫「風之谷」。
1985年
創作電影「天空之城」開始進入籌備階段。漫蜜連載於5月號中斷。於東京都武藏野市吉祥寺成立STUDIO GHIBLI。5月,前往英國·威爾斯勘查外景。
1986年
8月2日,「天空之城」以東映發行的方式公開放映。宮崎先生擔任監督·腳本·分鏡。同時放映「福爾摩斯/ミセスハドソン人質事件ドーバー海峡の大空中戦」。於『Animage』12月號再度連載漫畫「風之谷」。
1987年
「風之谷」連載於6月號中斷。「龍貓」進入籌備階段。仍然由STUDIO GHIBLI負責製作,與「再見螢火蟲」搭配放映。
1988年
4月16日,「龍貓」以東映發行的方式公開放映。宮崎先生擔任原作·腳本·監督。成為昭和最後一年最受歡迎的日本電影。
1989年
7月29日,「魔女宅急便」以東映發行的方式公開放映。宮崎先生擔任製作·腳本·監督。
1990年
於『Animage』4月號再度連載漫畫「風之谷」。1991年擔任「歲月的童話」(監督·高畑勳)的製作人。「風之谷」連載於5月號中斷。「飛天紅豬俠」進入籌備階段。
1992年
7月18日,「飛天紅豬俠」以東映發行的方式公開放映。宮崎先生擔任原作·腳本·監督。
擔任日本TV的短片「藍色的種子(そらいろのたね)」的監督。擔任同為日本TV短片「那是什麼(なんだろう)」的導演·原畫。兩部作品皆由STUDIO GHIBLI製作。
1993年
於『Animage』3月號再度連載漫畫「風之谷」。1994年擔任「總天然色漫畫電影百變貍貓」(監督·高製)的企畫。在『Animage』3月號刊載漫畫「風之谷」最後一集。
1995年
7月15日,擔任「夢幻街少女」(監督·近藤喜文)的腳本·分鏡腳本·製作人。在同時上映的「On Your Mark」中擔任原作·腳本·監督。
1996年
7月,在日本出版「出發點」一書。
1997年
7月12日,「幽靈公主」以東資發行的方式公開放映。擔任原作·腳本·監督。開創日本電影的新記錄。
1998年
2月,前往德國參加柏林影展。3月,為追尋聖修伯里的足跡,在電視節目的企劃下經由法國前往撒哈拉沙漠。
6月,在東京都小金井市設置名為二馬力的辦公室兼工作室(通稱「豚屋」)。9月之後的半年間,開設東小金井村塾2。以村塾負責人的身分對有志成為動畫導演的人講課。
1999年
9月,前往美國參加「幽靈公主」北美公開放映的宣傳活動。
2000年
3月,「三鷹之森GHIBLI美術館」於東京都井之頭公圔正式動工。
2001年
7月20日,「千與千尋」以東寶發行的方式公開放映。擔任原作·腳本·監督。創立了融合日本電影與西洋電影的新記錄。
10月,三鷹之森GHIBLI美術館開館。擔任館主一職。美術館專用的短篇電影「くじらとり」也開始公開放映。擔任腳本·監督。其後的「コロの大さんぽ」、「小梅和貓公車(めいとこねこバス)」也在GHIBLI美術館公開放映。擔任原作·腳本·監督。
2002年
2月,「千與千尋」獲得第52屆柏林影展金熊獎。
7月20日,擔任電影「貓之報恩」(導演·森田宏幸)企劃。
9月,前往美國參加「千與千尋」北美公開放映的宣傳活動。
2003年
3月,「千與千尋」獲頒美國奧斯卡金像獎的最佳長篇動畫電影獎。
7月,製作上條恆彥氏的CD「母親的照片(お母さんの写真)」。擔任製作人一職。
2004年
11月20日,「哈爾移動城堡」以東寶發行的方式公開放映。擔任腳本·監督。繼「千與千尋」之後再創日本電影的佳績。
2005年
9月,獲得威尼斯影展榮譽金獅子獎。
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