文档:来自虞美人之坡 企划书

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企画のための覚書 「コクリコ坂から」について
「港の見える丘」 企画:宮崎駿
说明企划的备忘录 关于 《来自虞美人之坡》
可以见到海港的山丘 企划:宫崎骏

 1980年頃『なかよし』に連載され不発に終った作品である(その意味で「耳をすませば」に似ている)。高校生の純愛・出生の秘密ものであるが、明らかに70年の経験を引きずる原作者(男性である)の存在を感じさせ、学園紛争と大衆蔑視が敷き込まれている。少女マンガの制約を知りつつ挑戦したともいえるだろう。
 这是一部在1980年的《NAKAYOSHI》上连载但最终流产的作品。(在这层意味上与《侧耳倾听》相似)。虽然是一段讲述高中生之间的纯洁爱情和出生秘密的故事,但其中却又掺杂了学院纷争和大众轻视的元素,明显地感觉到带有70年代经历原作者(男性)的存在。一边逐步了解少女漫画的限制,但一边却又对其进行挑战。
 結果的に失敗作に終った最大の理由は、少女マンガが構造的に社会や風景、時間と空間を築かずに、心象風景の描写に終始するからである。
 但结果却以失败告终的最大原因是,没有构筑少女漫画所要求的社会、情景以及时间和空间,而是至始至终对想象中的风景进行描写。
 少女マンガは映画になり得るか。その課題が後に「耳をすませば」の企画となった。「コクリコ坂から」も映画化可能の目途が立ったが、時代的制約で断念した。学園闘争が風化しつつも記憶に遺っていた時代には、いかにも時代おくれの感が強かったからだ。
 少女漫画能映画化吗?这一课题随后化为《侧耳倾听》的企划。虽然也确定了《来自虞美人之坡》可能映画化的目标,但因时代的制约而打消了念头。因为在这个学园纠纷逐渐风化以至于遗存在记忆中的那个年代,会显得非常落伍。
 今はちがう。学園闘争はノスタルジーの中に溶け込んでいる。ちょっと昔の物語として作ることができる。
 但是现在,学院纷争里又融入了一种乡恋般的情绪。在这种往昔的故事中是可以表现出来的。
 「コクリコ坂から」は、人を恋(こ)うる心を初々しく描くものである。少女も少年達も純潔にまっすぐでなければならぬ。異性への憧れと尊敬を失ってはならない。出生の秘密にもたじろがず自分達の力で切りぬけねばならない。それをてらわずに描きたい。
 《来自虞美人之坡》描写了初次踏入爱河时的心情。无论少女还是少年都必须纯洁率真,不能失去对异性的憧憬和尊重,不畏缩于身世的秘密,并且要有必须靠自己的力量摆脱困境的勇气。这部电影想要以一种质朴的方式表现出这些内容。
 「となりのトトロ」は、1988年に1953年を想定して作られた。TVのない時代である。今日からは57年前の世界となる。
 《龙猫》故事背景设在1953年,在1988年制作完成。那是一个没有电视,距今57年的世界。
 「コクリコ坂から」は、1963年頃、オリンピックの前の年としたい。47年前の横浜が舞台となる。団塊の世代が現代っ子と呼ばれ始めた時代、その世代よりちょっと上の高校生達が主人公である。首都高はまだないが、交通地獄が叫ばれ道も電車もひしめき、公害で海や川は汚れた。1963年は東京都内からカワセミが姿を消し、学級の中で共通するアダ名が消えた時期でもある。貧乏だが希望だけがあった。
 《来自虞美人之坡》的背景时间则设定于1963年,也就是奥林匹克的前一年。以47年前的横滨为舞台。那是一个因人口过于稠密而开始呼吁计划生育的时代,主人公们则是比这个时代稍早的高中生们。那时还没有出现首都高速路,被称为交通地狱的街道上也堵满了电车,河海也因一些公害受到污染。翠鸟也在1963年的时候开始从东京内消失。虽贫穷但希望犹在。
 新しい時代の幕明けであり、何かが失われようとしている時代でもある。とはいえ、映画は時代を描くのではない。
 新时代的帷幕虽被拉开,但同时也是一个害怕失去年代。也就是说,它不单单是一部描述时代的电影。
 女系家族の長女である主人公の海(うみ)は高校二年、父を海で亡くし仕事を持つ母親をたすけて、下宿人もふくめ6人の大世帯の面倒を見ている。対する少年達は新聞部の部長と生徒会の会長。ふたりは世間と大人に対して油断ならない身がまえをしている。ちょっと不良っぽくふるまい、海に素直なアプローチなんぞしない。硬派なのである。
 作为家族女眷中的老大的主人公海是一名高中二年级生,因父亲在海上下落不明而帮助母亲打理包括寄宿人在内的六人大家庭。与其相对的少年们则是新闻部的部长和学生会的会长。两个人对社会和成人都摆出了警惕的姿态。行为举止有点儿不良,并且没有以坦率的方式接近海,是两个带有硬派气息的角色。
 原作は、かけマージャンの後始末とか、生徒手帖が担保とか、雑誌の枠ギリギリに話を現代っぽくしようとしているが、そんな無理は映画ですることはない。筋は変更可能である。学園紛争についても、火つけ役になってしまった自分達の責任を各々がはっきりケジメをつける。熱狂して暴走することはしない。何故なら彼等には、各々他人には言わない目標があり、その事において真摯だからである。
 关于原作里麻将Gambling的始末、担保学生手册等等,虽然想把这些在杂志里框框的东西以现代化的语言表达出来,但这种东西却没有办法在电影中展现出来。也有可能会变更情节。关于学园纷争,主人公们对于自己造成的后果也各自分开处理。并没有狂热暴走的描述。至于原因为何,是因为他们每个人都有不能言语的目标,并且都以真挚的心情来对待它。
 少年達が遠くを見つめているように、海もまた帰らぬ父を待って遠い水平線を見つめている。
 横浜港を見下ろす丘の上の、古い屋敷の庭に毎日信号旗をあげつづけている海。
 「U・W」旗――(安全な航行を祈る)である。
 丘の下をよく通るタグボートのマストに返礼の旗があがる。忙しい一日が始まる朝の日課のようになっている。
 ある朝、タグボートからちがう信号が上る。
 「UWMER」そして返礼のペナント一旒(いちりゅう)。誰か自分の名前を知っている人が、あのタグボートに乗っている。MERはメール、フランス語で海のことである。海はおどろくが、たちまち朝の家事の大さわぎにまき込まれていく。
 父の操るタグボートに便乗していた少年は、海が毎日、信号旗をあげていることを知っていた。
 (ちょっとダブりますが)
 少年们正盯着远处,海也因等着还未归的父亲而正盯着远处的水平线。
 在能俯视横滨港的山丘上,主人公海每天都在一幢旧屋子的庭院里坚持打信号旗。
 “U·W”旗——有祈祷安全航行的意味。
 去看经常经过山丘下方的拖船的桅杆上升返礼的旗,成为开始一天忙碌生活的必修课。
 某天早上,拖船上的信号不一样了。
 “UWMER”紧接着返礼的三角旗升到高空。有个只知道自己名字的人在那条拖船上。MER是在法语里是海的意思。海虽然惊讶,但马上就卷入早晨家事的争吵。
 驾驶爸爸拖船的少年知道海每天都打信号旗的事。
 (稍稍回忆一下)
 舞台は、いまは姿を消した三島型の貨物船や、漁船、はしけ、ひき船が往来する海を見下ろす丘の上、まだ開発の手はのびていない。祖父の代まで病院だった建物に、和間の居住部分がくっついている。学校も一考を要する。無機的なコンクリート校舎が既にいくらでもあった時代だが、絵を描くにはつまらない。登校路は、まだ舗装されていない道も残り、オート三輪やらひっかしいだトラックが砂埃(すなぼこり)をあげている。が、ひとたび町へおりると、工事だらけの道路はひしめく車で渋滞し、木製の電柱やら無秩序な看板がひしめき、工場地帯のエントツからは盛大に黒煙、白煙、赤やらみどり(本当だった)の煙が吐き出されている。大公害時代の幕がきっておとされ、一方で細民窟が存在する猛烈な経済成長期にある。横浜の一隅を舞台にすることで下界の有様がふたりの直面する世間となる。その世界を俊と海が道行をする。そこが最後のクライマックスだ。
 以可以俯视现在已经消失的三岛型货船、渔船、驳船、拖船来往于海面,并且还没有遭到开发的山丘为舞台。需要考虑在祖父那代就已经是医院,并且带有和式房间的建筑物的构造。学校的构造也需要想一想。在没有机械概念、只用混凝土建造校舍的时代,画成画就会很无聊。上学路上残留着没铺完的路、因三轮车经过而扬起的灰尘沙粒。踏入街道的话,就会看见满是工事的道路,因为拥挤的车辆而堵塞,还挤着木制的电线杆和无秩序的看板,从工厂地区的烟囱里冒出大量的白、黑、红、绿色的烟(这是真的)。一方面处在大公害时代已经落幕的时期,另一方面又处在存在贫民窟、猛烈的经济成长期。因为以横滨的一角为舞台,所以能更直面地看到平民生活状态的两面。在这样的世界里,俊和海的私奔成为本片最后的高潮。
 出生の秘密については、いかにもマンネリな安直なモチーフなので慎重なとりあつかいが必要である。いかにして秘密を知ったか、その時ふたりはどう反応するか。
 关于身世的秘密这部分,因为是深沉的主题,所以就有必要以一种非常慎重的方式来对待。怎么做才知道秘密的呢?知道秘密的时候两个人又该如何应对呢?
 ふたりはまっすぐに進む。心中もしない、恋もあきらめない。真実を知ろうと、ふたりは自分の脚でたしかめに行く。簡単ではない。そして戦争と戦後の混乱期の中で、ふたりの親達がどう出会い、愛し生きたかを知っていくのだ。昔の船乗り仲間や、特攻隊の戦友達も力になってくれるだろう。彼等は最大の敬意をふたりに払うだろう。
 结果却是两个人勇往直前。既没有殉情自杀,也没有放弃爱情。知道了真相后,两个人脚踏实地地向前走着。这其实很难。然后在战争和战后的混乱期中,他们又会怎样面对自己的双亲,会渐渐理解萌生出的爱意。以前乘船的朋友,特攻队的战友们也会帮助他们吧。他们会对两人表达最大的敬意吧。
 終章でふたりは父達の旧友の(俊の養父でもある)タグボートで帰途につく。海はその時はじめて、海の上から自分の住む古い洋館と、ひるがえる旗を見る。待ちつづけていた父と共に今こそ帰るのだ。そのかたわらにりりしい少年が立っている。
 在结尾处两个人被海父亲的老朋友(也是俊的养父)用拖船带回家。海在那个时候首次从海上看见自己居住的老宅和信号旗。一直等待的父亲这次也一同回来了。另一方面俊也成长为了一名凛凛少年。
 原作のエピソードを見ると、連載の初回と二回目位が一番生彩がある。その後の展開は、原作者にもマンガ家にも手にあまったようだ。
 要是看原作花絮的话,连载的初回和第二回是最精彩的部分。在这之后的展开故事,好像就经过原作者和漫画家的过多修改。
 マンガ的に展開する必要はない。あちこちに散りばめられたコミック風のオチも切りすてる。時間の流れ、空間の描写にリアリティーを(クソていねいという意味ではない)。脇役の人々を、ギャグの為の配置にしてはいけない。少年達にいかにもいそうな存在感がほしい。二枚目じゃなくていい。原作の生徒会会長なんか“ど”がつくマンネリだ。少女の学校友達にも存在感を。ひきたて役にしてはいけない。海の祖母も母も、下宿人達も、それぞれクセはあるが共感できる人々にしたい。
 没有必要以漫画的方式展开,剪掉零零散散的漫画风格的部分。随着时间的流逝,空间的描画也更有真实意味。(没有过度委婉的感觉)参与制作的人员也必须要添加噱头。希望少年们可以有那样的存在感。不是单单能以两回就表达的。原作中的学生会会长千篇一律地使用“ど”。少女学校中的朋友也要表现出存在感,而不仅仅是个配角。海的祖母、母亲、寄宿人虽然要有自己各自的特点,但是他们也要有共同点,制作方想要创造出这样的人物来。
 観客が、自分にもそんな青春があったような気がして来たり、自分もそう生きたいとひかれるような映画になるといいと思う。
 我想这是一部会让观众们觉得自己也曾有过这样的青春时光,自己也曾这样生活过,吸引人的电影。