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戦火のなかの兄・清太は、まるで現代の少年がタイムス
リップしたかのよう——現代を照射する物語としての
魅力を力強く打ち出した八七年当時の記者発表用資料。
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在戰火中的哥哥清太,仿佛現代少年穿越時空一般——作為一部映照現代的故事,1987年當時的記者發佈會資料強烈地展現了其魅力。
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池のほとりの横穴に、十四歳の少年が四歳の妹を連れ、ふたりきりで住んでいる。七輪ひとつと布団・蚊帳をもちこみ、冒険ごっこかママゴトか、枯木を拾って飯を炊き、塩気が足りぬと海水を汲む。池で体を洗い、泳いだついでにタニシをとる。
時は夏。陽は天地を焦がし、雨は水面を叩き、滝となって流れ下る。たちのぼる蒸気、流れる汗。はげしい明暗が眼を射る天地に夜が訪れ、夏草におびただしい蛍が舞う。兄妹は蚊帳のなかに百を超える蛍をはなす。淡い光にうかびあがるのは、まるで夢のような昔のおもいで。昔といっても、それはひと月前までつづいていた……。
身を寄せあう兄と妹がふたりきりで織りなす奇妙で切ない日常の世界。まわりにたちのぼる不思議なオーラ。
しかし、ここは難破船のうちあげられた無人島ではない。まわりには田畑がひろがり、人もいれば立派な家も沢山ある。池の土手から見下ろせば、眼下に街がなだらかにつづき、そのまま海に落ちこんでいる。街は炎天下の焼野原と、ひっそり昔ながらのたたずまいをみせる住宅地の一画とが交じりあい、しかし、そのあらわな断絶は、兄妹をおそった突然の災厄の前と後とが心のなかで決してつながらないのとおなじだった。むき出しの高架線路ばかりが目立つ街を、川に沿ってくだり、三本の鉄道と国道を横切れば、かげろうの燃えた夏の砂浜に出る。
昭和二十年七月六日より敗戦後の八月二十二日までのひと月半、父の出征中、空襲で母を失った清太と節子の兄妹は、山腹の貯水池わきの防空壕に住み、この瀬戸内の街がふたりの生活圏、ふたりのシマだった。
幼い妹に、ママゴト遊びと実生活の区別がどのようにつくものなのか。それを教えるのは、容赦なくおそいかかる空腹。
無人島ではない。人は大勢いた。人との接触もあった。配給米もうけとった。預金からおろした十円札を何枚もポケットに突っこみ、兄は母の残した着物をもって買い出しにでかけた。しかし、近所の人々は、水を汲む井戸で出会っても、兄妹の横穴を訪れることはなかった。中学三年生の兄を立派な大人とみなし、ふたりを独立した家族として干渉を慎んだのか。ただみずからと家族のくらしに忙しく、兄妹をふりかえるゆとりを失っていたのだろう。それどころか、兄がわずかな食物を求めて畑を荒らしでもしようものなら、たちまち殴る蹴る、そして警察に突き出した。
空襲警報の鳴るたびに、兄は焼け残った街の一画へと出動する。すさまじい爆音・爆撃・機銃掃射の音の交錯するなかを少年は走り、待避中の留守宅へとびこみ、食べ物や交換用の衣類などを盗みだす。空にB29の姿がきらめこうが、もはや恐怖はなく、ワーイと手でも振りたい気持ちだった。
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在池塘邊的橫穴里,一個十四歲的少年帶着四歲的妹妹,兩人獨自生活。他們帶着一個七輪、被褥和蚊帳,像是在玩冒險遊戲或過家家,撿來枯木煮飯,覺得鹽不夠就去海邊汲水。他們在池塘里洗澡,順便游泳時撿些田螺。
時間是夏天。太陽炙烤着天地,雨水敲打着水面,像瀑布一樣流下。蒸騰的熱氣,流淌的汗水。在強烈的明暗交替中,夜晚降臨,夏草間飛舞着無數的螢火蟲。兄妹倆在蚊帳里放了一百多隻螢火蟲。在淡淡的光中浮現的,仿佛是夢一般的昔日回憶。說是昔日,其實那不過是一個月前的事……
相依為命的兄妹倆獨自編織着奇異而悲傷的日常世界。周圍瀰漫着一種不可思議的氛圍。
然而,這裏並不是遇難船隻擱淺的無人島。周圍是廣闊的田地,有人居住,也有許多漂亮的房子。從池塘的堤壩上俯瞰,眼前是平緩延伸的街道,一直延伸到海邊。街道上,炎炎烈日下的燒焦荒野與靜謐的古老住宅區交織在一起,然而,這種明顯的斷裂,正如兄妹倆心中那場突如其來的災難前後無法連接一樣。沿着河流下行,穿過三條鐵路和國道,眼前是一片在夏日陽光下燃燒的沙灘。
從昭和二十年七月六日到戰敗後的八月二十二日,一個半月的時間裏,父親出征在外,母親在空襲中去世的清太和節子兄妹倆,住在山腰的貯水池旁的防空洞裏,這片瀨戶內海的街道成了他們的生活圈,他們的世界。
對於年幼的妹妹來說,過家家遊戲和現實生活的界限是如何劃分的呢?教會她這一點的,是無情襲來的飢餓。
這裏不是無人島。有很多人。他們也與人有過接觸。他們領到了配給的大米。哥哥把從存款中取出的幾張十元鈔票塞進口袋,帶着母親留下的衣服出去採購。然而,鄰居們即使在汲水的井邊相遇,也不會去拜訪兄妹倆的橫穴。或許他們把中學三年級的哥哥看作一個成熟的大人,把兄妹倆當作獨立的家庭,謹慎地不去干涉。又或者,他們只是忙於自己和家人的生活,無暇顧及兄妹倆。不僅如此,如果哥哥為了尋找一點食物而破壞田地,他們立刻會拳打腳踢,然後把他交給警察。
每當空襲警報響起,哥哥就會出動到燒毀的街道一角。在震耳欲聾的爆炸聲、轟炸聲和機槍掃射聲中,少年奔跑着,闖入避難中的空屋,偷取食物和換洗的衣物。即使天空中閃爍着B29的身影,他也已經不再感到恐懼,甚至想揮手歡呼。
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もしいま、突然戦争がはじまり、日本が戦火に見舞われたら、両親を失った子供たちはどう生きるのだろうか。大人たちは他人の子供たちにどう接するのだろうか。
「火垂るの墓」の清太少年は、私には、まるで現代の少年がタイムスリップして、あの不幸な時代にまぎれこんでしまったように思えてならない。そしてほとんど必然としかいいようのない成行きで妹を死なせ、ひと月してみずからも死んでいく。
中学三年生といえば、う予科練や陸軍幼年学校へ入ったり、少年兵になる子供もいた年齢である。しかし、清太は海軍大尉の長男でありながら、全く軍国少年らしいところがない。空襲で家が焼けて、妹に「どないするのん?」と聞かれ、「お父ちゃん、仇とってくれるて」としか答えられない。みずからお国のため、天皇のために滅私奉公する気概はまるでなく、人並み」にはもっていた敵愾心も、空襲のショックでたちまち消しとぶ。
当時としてはかなり裕福に育ち、都会生活の楽しさも知っていた。逆境に立ち向かう必要はもちろん、厳しい親の労働を手伝わされたり、歯を喰いしばって屈辱に耐えるような経験はなかった。卑屈な態度をとったこともなく、戦時下とはいえ、のんびりとくらして来た部類に入るはずである。清太は母を失い、焼け出されて遠縁にあたる未亡人の家に身をよせる。夫の従兄である海軍大尉にひがみでもあったのか、生来の情の薄さか、未亡人はたちまち兄妹を邪魔者扱いし、冷たく当たるようになる。清太は未亡人のいやがらせやいやみに耐えることが出来ない。妹と自分の身をまもるために我慢し、ヒステリイの未亡人の前に膝を屈し、許しを乞うことが出来ない。未亡人からみれば、清太は全然可愛気のない子供だったろう。
「よろし、御飯別々にしましょ、それやったら文句ないでしょ」
「そんなに命惜しいねんやったら、横穴に住んどったらええのに」
浴びせかけられる言葉もそれを口にする心もたしかに冷酷そのものではあるが、未亡人は兄妹が本当にそんなことが出来るとは思っていなかったかもしれない。清太はしかし、自分に完全な屈服と御機嫌とりを要求する、この泥沼のような人間関係のなかに身をおきつづけることは出来なかった。むしろ耐えがたい人間関係から身をひいて、みずから食事を別にし、横穴へと去るのである。卑屈に自分にすがって来ることをしないこの子は、どこまでも憎らしく、未亡人は厄介払いしてもあまり良心が痛まなかっただろう。
清太のとったこのような行動や心のうごきは、物質的に恵まれ、快・不快を対人関係や行動や存在の大きな基準とし、わずらわしい人間関係をいとう現代の青年や子供たちとどこか似てはいないだろうか。いや、その子供だちと時代を共有する大人たちも同じである。
家族の絆がゆるみ、隣人同士の連帯感が減った分だけ、二重三重の社会的保護ないし管理の枠にまもられている現代。相互不干渉をつき合いの基本におき、本質に触れない遊戯的な気のつかい合いに、みずからのやさしさを確かめあっている私たち。戦争でなくてもいい、もし大災害が襲いかかり、相互扶助や協調に人を向かわせる理念もないまま、この社会的なタガが外れてしまったら、裸同然の人間関係のなかで終戦直後以上に人は人に対し狼となるにちがいない。自分がどちらの側にもなる可能性を思って戦慄する。そして、たとえ人間関係からのがれ、清太のように妹とふたりだけでくらそうとしても、いったいどれだけの少年が、人々が、清太ほどに妹を養いつづけられるだろうか。
物語の悲惨さにも。かかわらず、清太にはいささかもみじめたらしさがない。すっと背をのばし、少年ひとり大地に立つさわやかささえ感じられる。十四歳の男の子が、女のように母のようにたくましく、生きることの根本である、食べる食べさせるということに全力をそそぐ。
人を頼らない兄妹ふたりきりの横穴でのくらしこそ、この物語の中心であり、救いである。苛酷な運命を背負わされたふたりにつかの間の光がさしこむ。幼児のほほえみ、イノセンスの結晶。
清太は自分で妹を養い、自分も生きようと努力し、しかし当然、力及ばず死んでいく。
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如果現在突然爆發戰爭,日本陷入戰火,失去父母的孩子們將如何生存?大人們又會如何對待他人的孩子?
《螢火蟲之墓》中的清太少年,在我看來,仿佛是一個現代少年穿越時空,不幸地陷入了那個時代。然後,幾乎是必然的,他失去了妹妹,一個月後自己也走向了死亡。
中學三年級的年紀,有些孩子已經進入了預備飛行員訓練班或陸軍幼年學校,甚至成為了少年兵。然而,清太雖然是海軍大尉的長子,卻完全沒有軍國少年的樣子。空襲燒毀了他們的家,妹妹問他「我們該怎麼辦?」他只能回答「爸爸會為我們報仇的。」他完全沒有為了國家、為了天皇而犧牲自我的氣概,甚至連普通人應有的敵愾心也在空襲的衝擊下瞬間消失。
在當時,他算是生活相當富裕,也享受過都市生活的樂趣。他從未經歷過需要面對逆境、幫助父母勞動或咬牙忍受屈辱的日子。他從未表現出卑躬屈膝的態度,即使在戰爭時期,他也屬於那種悠閒生活的人。清太失去了母親,被燒毀了家,只能寄居在遠房親戚的寡婦家中。或許是因為對丈夫的堂兄——那位海軍大尉心存芥蒂,或者是因為天生情感淡薄,寡婦很快就將兄妹倆視為累贅,對他們冷眼相待。清太無法忍受寡婦的刁難和冷嘲熱諷。為了保護妹妹和自己,他無法在歇斯底里的寡婦面前屈膝求饒。在寡婦眼中,清太大概是個毫無可愛之處的孩子。
「好吧,我們分開吃飯吧,這樣你就沒話說了吧。」
「如果你那麼惜命,不如去住山洞吧。」
寡婦說這些話時,語氣和心態確實冷酷無情,但她可能從未想過兄妹倆真的會這麼做。然而,清太無法繼續置身於這種要求他完全屈服和討好的人際關係的泥潭中。他選擇了從這種難以忍受的關係中抽身,自己分開吃飯,搬進了山洞。這個孩子沒有卑躬屈膝地依附於她,反而讓她感到無比厭惡,寡婦大概也不會因為擺脫了他們而感到良心不安。
清太的這些行為和內心活動,與那些物質條件優越、以快感和不快感作為人際關係、行為和存在的主要標準、厭惡複雜人際關係的現代青年和孩子們,是否有些相似呢?不,與這些孩子生活在同一時代的大人們也是如此。
在現代,家庭紐帶鬆弛,鄰里之間的團結感減弱,取而代之的是多重社會保護或管理的框架。我們以互不干涉為交往的基本原則,通過不觸及本質的、遊戲般的相互關心,來確認自己的善良。即使不是戰爭,如果一場大災難襲來,而人們缺乏互助和協作的理念,社會的約束一旦消失,在赤裸裸的人際關係中,人們一定會比戰後更加像狼一樣對待彼此。想到自己可能成為任何一方,不禁感到戰慄。而且,即使像清太那樣試圖逃離人際關係,與妹妹獨自生活,又有多少少年、多少人能夠像清太那樣一直養活妹妹呢?
儘管故事充滿了悲慘,清太卻沒有一絲一毫的妥協。他挺直了腰板,獨自站在大地上,甚至讓人感到一種清爽的氣息。這個十四歲的男孩,像女人、像母親一樣堅強,全力以赴地投入到生存的根本——吃和養活妹妹。
兄妹倆不依賴他人,獨自在山洞中生活,正是這個故事的核心,也是它的救贖。背負着殘酷命運的兩人,短暫地迎來了光明。那是幼兒的微笑,是純真的結晶。
清太努力養活妹妹,也努力讓自己活下去,但最終,力不從心,走向了死亡。
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何はともあれたくましく力強く生き抜くことが至上であった戦後の復興から高度成長への時代「火垂るの墓」の哀切さに心うたれても、そのあまりの悲惨な結末を認めたがらない人々がいた。
しかしいま「火垂るの墓」は強烈な光を放ち、現代を照らしだして私たちをおびえさせる。戦後四十年を通じて、現代ほど清太の生き方死にざまを人ごととは思えず、共感し得る時代はない。
いまこそ、この物語を映像化したい。
私たちはアニメーションで、困難に雄々しく立ち向かい、状況を切りひらき、たくましく生き抜く素晴らしい少年少女ばかりを描いて来た。しかし、現実には決して切りひらくことの出来ない状況がある。それは戦場と化した街や村であり、「修羅と化す人の心である。そこで死ななければならないのは心やさしい現代の若者であり、私たちの半分である。アニメーションで勇気やたくましさを描くことはもちろん大切であるが、まず人と人がどうつながるかについて思卜をはせることができる作品もまた必要であろう。
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在戰後復興到高度成長的時代,無論如何都要堅強有力地生存下去是至高無上的。即使《螢火蟲之墓》的哀切讓人心碎,也有人不願意承認那過於悲慘的結局。
然而,如今《螢火蟲之墓》卻散發出強烈的光芒,照亮了現代,讓我們感到恐懼。在戰後的四十年裏,沒有哪個時代能像現在這樣,讓人無法將清太的生存方式和死亡視為他人的事,而能夠產生共鳴。
現在正是將這個故事影像化的時候。
我們一直以來用動畫描繪了那些勇敢面對困難、開拓局面、堅強生存的少男少女。然而,現實中有些情況是無論如何也無法改變的。那就是變成戰場的街道和村莊,以及變成修羅的人心。在那裏不得不死去的是心地善良的現代年輕人,也是我們的一半。用動畫描繪勇氣和堅強固然重要,但首先也需要有能夠讓人思考人與人之間如何聯繫的作品。
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