文档:千与千寻 企划书

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 プロデューサー/鈴木敏夫
INSIDE OF CHIHIRO
千尋を知る 
不思議の町の千尋――この映画のねらい/宮崎駿
作画監督/安藤雅司
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 登場人物相関図 不思議の町の千尋〜この映面の狙い〜宮崎駿 世界を作り上げる手〜制作現場フォトルポ
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 ‘神隐少女’(2001)
‘神隐少女’(2001)
在不可思议的小镇里的千寻——这部电影的目标
为了‘神隐少女 IMAGE ALBUM’所做的备忘录
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 鈴木敏夫 この映画をヒットさせていいのか確信が持てなかった
Part1 映画『千と千尋の神隠し』誕生 
宮崎 駿 不思議の町の千尋――この映画のねらい
Part2 『千と千尋の神隠し』の制作現場
不思議の町の千尋
——この映画のねらい
在不可思议的小镇里的千寻
——这部电影的目标
宮崎駿
宫崎骏

 この作品は、武器を振りまわしたり、超能力の力くらべこそないが、冒険ものがたりというべき作品である。冒険とはいっても、正邪の対決が主題ではなく、善人も悪人もみな混じり合って存在する世の中ともいうべき中へ投げ込まれ、修行し、友愛と献身を学び、知恵を発揮して生還する少女のものがたりになるはずだ。彼女は切り抜け、体をかわし、ひとまずは元の日常に帰って来るのだが、世の中が消滅しないと同じに、それは悪を滅ぼしたからではなく、彼女が生きる力を獲得した結果なのである。
 今日、あいまいになってしまった世の中というもの、あいまいなくせに、浸食し喰い尽くそうとする世の中を、ファンタジーの形を借りて、くっきりと描き出すことが、この映画の主要な課題である。
 かこわれ、守られ、遠ざけられて、生きることがうすぼんやりにしか感じられない日常の中で、子供達はひよわな自我を肥大化させるしかない。千尋のヒョロヒョロの手足や、簡単にはおもしろがりませんよゥというブチャムクレの表情はその象徴なのだ。けれども、現実がくっきりし、抜きさしならない関係の中で危機に直面した時、本人も気づかなかった適応力や忍耐力が湧き出し、果断な判断力や行動力を発揮する生命を、自分がかかえている事に気づくはずだ。
 もっとも、ただパニックって、「ウソーッ」としゃがみこむ人間がほとんどかもしれないが、そういう人々は千尋の出会った状況下では、すぐ消されるか食べられるかしてしまうだろう。千尋が主人公である資格は、実は食い尽くされない力にあるといえる。決して、美少女であったり、類まれな心の持ち主だから主人公になるのではない。その点が、この作品の特長であり、だからまた、10才の女の子達のための映画でもあり得るのである。
 言葉は力である。千尋の迷い込んだ世界では、言葉を発することはとり返しのつかない重さを持っている。 湯婆婆が支配する湯屋では、「いやだ」「帰りたい」と一言でも口にしたら、魔女はたちまち千尋を放り出し、彼女は何処にも行くあてのないままさまよい消滅するか、ニワトリにされて食われるまで玉子を産みつづけるかの道しかなくなる。逆に、「ここで働く」と千尋が言葉を発すれば、魔女といえども無視することができない。
 今日、言葉はかぎりなく軽く、どうとでも言えるアブクのようなものと受けとられているが、それは現実がうつろになっている反映にすぎない。言葉は力であることは、今も真実である。力のない空虚な言葉が、無意味にあふれているだけなのだ。
 名前を奪うという行為は、呼び名を変えるということではなく、相手を完全に支配しようとする方法である。千は、千尋の名を自分自身が忘れていく事に気がつきゾッとする。また、豚舎に両親を訪ねて行くごとに、豚の姿をした両親に平気になっていくのだ。湯婆婆の世間では、常に喰らい尽くされる危機の中に生きなければならない。
 困難な世間の中で、千尋はむしろいきいきとしていく。ぶちゃむくれのだるそうなキャラクターは、映画の大団円にはハッとするような魅力的な表情を持つようになるだろう。世の中の本質は、今も少しも変わっていない。言葉は意志であり、自分であり、力なのだということを、この映画は説得力を持って訴えるつもりである。
 日本を舞台にするファンタジーを作る意味もまたそこにある。お伽話でも、逃げ口の多い西欧ものにしたくないのである。この映画はよくある異世界ものの一亜流と受けとられそうだが、むしろ、昔話に登場する「雀のお宿」や「鼠の御殿」の直系の子孫と考えたい。パラレルワールド等と言わなくとも、私達のご先祖は雀のお宿でしくじったり、鼠の御殿で宴を楽しんだりして来たのだ。
 湯婆婆の棲む世界を、擬洋風にするのは、何処かで見たことがあり、夢だか現実だか定かでなくするためだが、同時に、日本の伝統的意匠が多様なイメージの宝庫だからでもある。民俗的空間―物語、伝承、行事、意匠、神ごとから呪術に至るまで―が、どれほど豊かでユニークであるかは、ただ知られていないだけなのである。カチカチ山や桃太郎は、たしかに説得力を失った。しかし、民話風のチンマリした世界に、伝統的なものをすべて詰め込むのは、いかにも貧弱な発想といわねばならない。子供達はハイテクにかこまれ、うすっぺらな工業製品の中でますます根を失っている。私達がどれほど豊かな伝統を持っているか、伝えなければならない。
 伝統的な意匠を、現代に通じる物語に組み込み、色あざやかなモザイクの一片としてはめ込むことで、映画の世界は新鮮な説得力を獲得するのだと思う。それは同時に、私達がこの島国の住人だという事を改めて認識することなのである。
 ボーダーレスの時代、よって立つ場所を持たない人間は、もっとも軽んぜられるだろう。場所は過去であり、歴史である。歴史を持たない人間、過去を忘れた民族はまたかげろうのように消えるか、ニワトリになって喰らわれるまで玉子を産みつづけるしかなくなるのだと思う。
 観客の10才の女の子達が、本当の自分の願いに出会う作品に、この映画をしたいと思う。
  这不是一部挥动武器、较量超能力的作品,而应该算是一部描述冒险故事的作品。虽说是冒险,但主题并非正邪对决,而是述说少女因为被丢进好人和坏人混合存在的世界里,而展开修练、学习友爱和奉献,并发挥智慧让自己得以返回原来世界的故事。她后来虽然顺利逃脱,回到原本的日常世界当中,但正如这个世界不会消失一样,其结果并不是因为世间的恶毁灭了,而是因为她获得了生存的力量。
  现在,世间充满了暧昧,虽然暧昧,却也有被贪婪啃噬殆尽之虞,也因此,这部电影的主要课题就是要借用幻想的形式,将这个变得暧昧贪婪的世界清楚地描绘出来。
  让孩子们处于这个被层层包围、被过度保护,在人际上形于疏离,对于生存只剩下模糊感觉的日常生活中,只会让他们虚弱的自我日渐肥大。千寻那细瘦无力的手脚,以及露出“我没那么轻易就会感到有趣好玩”的气鼓鼓表情就是最佳象征。可是,现实是清楚鲜明的,当她在进退两难的关系中面临危机时,总会涌现出连她本人都没察觉的适应力或忍耐力,进而发现自己其实拥有果断的判断力和付诸行动的生命力。
  绝大多数的人在遇到事情时都只会陷入恐慌状态,惊呼著“骗人——”而蹲坐在地,那些人若是遭遇和千寻相同的状况,肯定会被立刻吃掉或消灭吧。因此,千寻担任主角的资格就在于,她拥有不被吞噬的力量。并不是因为她是美少女,或是拥有一颗不凡的心才当上女主角。这正是这部电影的特色,同时这部电影也可以说是为十岁少女们而作的电影。
  语言是一种力量。在千寻所误闯的世界里,出声说话具有无法挽回的沉重力道。在汤婆婆所掌控的汤屋中,胆敢说出“我不要”、“我想回家”的话,那个魔女肯定会立刻把千寻丢出去,让她无处可归地自取灭亡,或是把她变成一只在被宰杀之前只能天天拼命下蛋的母鸡。相反地,千寻只要说出“我要在这里工作”这句话,就连身为魔女的汤婆婆也无法置之不理。在今日的世界里,语言变得轻浮,甚至被解读成有如气泡般微不足道,那只不过是反映出现实有多么空虚罢了。语言是一种力量,即便是现在,这依然是不变的真理。只是现在充斥着太多没有力量的空虚话语,使得语言失去了意义。
  夺取姓名这个行为,目的并不在于改变称呼,而是想要完全掌控对方的一种方法。小千察觉自己逐渐遗忘千寻这个名字时,不禁不寒而栗。还有,她越去猪舍看父母,就越不在乎他们的猪模样。因为在汤婆婆所支配的世界里,她必须在随时可能被吞噬的危机中生存下去才行。
  千寻将会在困难重重的世界里日益活泼茁壮。成天气嘟嘟又慵懒的角色,到了电影最后的大团圆画面时,表情应该会变得开朗、充满魅力吧。这个世界的本质至今没有任何的改变。语言是意志、是自我、是力量,我打算在这部电影里好好地阐明这一点的看法来佐证。
  这也是为什么我要把日本拿来作为幻想舞台的原因。因为即使是童话故事,我也不愿意把它制作成拥有许多逃生路径的西欧故事。我知道这部电影极可能被理解成异世界物语里的旁系支流,但我宁愿把它想成是古老传说“雀鸟之宿”或“鼠之御殿”的直系子孙。就算称不上是两条平行线,我们的祖先还是一路从雀鸟之宿中遭遇挫败,在老鼠宅邸中享受酒宴之乐。
  而之所以将汤婆婆所居住的世界制作成仿洋风,是为了让它显得似曾相识,让人分不清那究竟是现实抑或梦幻,而且,它同时也是表现日本传统美术工艺多样性的宝库。日本的民俗空间——从故事、传说、庆典、美术工艺、神祇到妖术符咒等——其实是丰富又独特,只是都不为人知罢了。“卡奇卡奇山”(注)或“桃太郎”的确已经失去说服力。但若是将传统的东西全部塞进民间故事这紧凑的世界里,则恐怕会招致构想太过贫乏的批评。孩子们被高科技所包围,在轻薄的工业制品中逐渐失根。我们必须告诉他们,我们所拥有的传统是多么地丰富才行。
  我认为,将传统的美术工艺编入具现代感的故事中,为故事镶嵌上一片色彩鲜艳的马赛克,将会让电影的世界得到新鲜的说服力。同时,我们也可借此重新体认,我们是这个岛国的住民这个事实。
  在这个无国界的时代里,没有立足场所的人们将会更加受到轻蔑吧。场所是过去,是历史。没有历史的人们、忘记过去的民族,恐怕会像蜉蝣般消失,或是变成在被宰杀之前持续下蛋的母鸡。
  希望这部电影可以让观众中的十岁女孩们,觉得她们找到了自己心中所期待的作品。
 
(‘神隐少女’企划书〈一九九九年十一月八日〉。收录在电影简介〈东宝 二〇〇一年七月二十日发行〉)
 
注解:
 卡奇卡奇山/kachikachiyama,江户时代的五大古老传说之一,述说狸、兔子和人类之间的复杂纠葛。